イースタン航空

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テンプレート:航空会社情報ボックス イースタン航空テンプレート:Lang-en)は、1920年代後半から1991年まで運航していたアメリカ合衆国航空会社。最盛期にはアメリカン航空ユナイテッド航空デルタ航空と共に"Big4"と呼ばれる[1]大手国内線航空会社であった。

航空会社コード

旧社(初代イースタン航空)の歴史

ここでは、1926年から1991年まで営業していた初代イースタン航空について記述する。

設立

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ピッツケルン・Mailwing 単発航空機

初代イースタン航空は、1926年4月19日、ハロルド・ピッツケルンによって、ピッツケルン・エビエーション(Pitcairn Aviation)として設立された。同社はメールウイング(Mailwing)単発航空機を運航し、連邦政府との間で、ニューヨークアトランタ間に国内郵便輸送のための契約を行った。

その後19の路線を契約し、業容を拡大していったが、1929年North American Aviation Corporation(NAAC)のオーナーである、クレイモント・キーズ (Clement Keys) に買収され、NAACのイースタン・ディビジョンとなった。1930年にはイースタン・エア・トランスポート(Eastern Air Transport)に改称。さらに後に、イースタン航空(初代・Eastern Air Lines)に改名している。

イースタン航空は複数の航空会社を買収し、その名の通りアメリカ東海岸を中心に路線網を拡大していったが、大陸横断路線の許認可を得ることが出来ず、業績は低迷するようになった。この大陸横断路線を開設できなかったことが、後々までイースタンの経営に影を落とすことになる。

第二次世界大戦以降

1938年、イースタン航空は、第一次世界大戦アメリカ陸軍航空隊(後のアメリカ空軍)のエース・パイロットとして活躍したエディー・リッケンバッカー(Eddie Rickenbacker)によって買収された。戦後、リッケンバッカーはイースタン航空を急成長させた。ダグラスDC-4ロッキード コンステレーションロッキード L-188 エレクトラといった機材を導入し、収益性の高いニューヨーク - マイアミ間の路線を開設。さらにカナダバミューダ諸島まで路線を広げた。

しかし、イースタン航空がロッキード・エレクトラを導入した1959年、競合他社はDC-8CV880ボーイング707といったジェット旅客機を就航させており、イースタン航空は厳しい戦いを強いられた。さらに操縦士航空機関士の対立やストライキなどによってサービスも低下し、業績は悪化。1961年には念願の大陸横断路線開設を申請したが、再び失敗し、許認可はライバルのデルタ航空ナショナル航空に下りてしまった。

シャトル便の開設

こうした中、リッケンバッカーは1959年に社長を辞任、アメリカン航空の弁護士だったマクインタイヤが社長となる。マクインタイヤのもとで、イースタン航空は遅まきながらボーイング720ボーイング727といったジェット旅客機を導入したほか、「予約無しで乗れる」をモットーにしたアメリカ東海岸でのシャトル便を開始した。このシャトル便は日本東京-大阪間で運航されている同名のものと違い、予約不要で乗ることが出来、また満席の場合は続行便が増便されるので必ず希望便に乗ることが出来た。

このイースタン航空初のシャトル便は、ロッキード・エレクトラによるラガーディア空港-ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港-ローガン国際空港の便であった。これは1980年代末に手放すまで高収益路線であったが、このシャトル便をニューヨーク - マイアミ間にも広げたところ、これが失敗に終わってしまう。また、労働組合との軋轢も悩みの種となった。マクインタイヤは古巣のアメリカン航空との合併を図ったが、これにも失敗。1963年、相次ぐ失敗の責任を取って辞任し、トランスワールド航空副社長だった、フロイド・ホールが社長となった。

大陸横断路線とさらなる拡張

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ロッキード L-1011-1 トライスター

ホールの元で、イースタン航空はディズニー・ワールドのオフィシャル・エアラインとなり、1967年には念願だった大陸横断路線の認可を得て、ポートランドシアトルへ就航、さらに1969年にはロサンゼルスへと路線を拡げた。また、マッキー・エアウェイズを買収してカリブ海にも路線を拡げた。

1972年4月、初のワイドボディ機としてロッキード L-1011 トライスターを導入し、そのローンチカスタマーとなった。ところが、就航間もない同年12月29日に、そのトライスターで墜落事故(イースタン航空401便墜落事故)を起こしてしまった。さらに1974年1975年と短い間に大きな航空事故をいくつも起こしてしまい、イメージが悪化。業績にも悪影響を及ぼすことになった。

つかの間の栄光

1975年、ホールは体調を崩して社長を辞任、代わって副社長のフランク・ボーマンが社長となった。ボーマンはアポロ8号宇宙飛行士(船長)であり、その知名度を活かして自らテレビCMに出演、イースタン航空のイメージアップを図った。また、長らくイースタン航空経営陣を悩ませてきた労働組合問題に 対しては、賃金アップの凍結の代わりに企業の利益を配分するVEPを導入した。

さらにボーマンは新鋭機材エアバスA300を投入し、運営効率の向上を図った。エアバスA300はそれまで10数機しか発注が無かったが、アメリカの大手であるイースタン航空が採用したことによって採用するアメリカの航空会社が増えた。これによって、エアバスはアメリカ市場への参入に成功し、エアバスが世界を二分する旅客機メーカーへと飛躍するきっかけとなった。

こうした改革により、イースタン航空は1976年から4年連続で大幅な利益を出すことに成功し、イースタン航空は全米でも屈指の大手航空会社となった。

航空規制緩和と他社との接戦

しかし、ボーマンによる改革の成果は長続きしなかった。1978年10月28日、当時のアメリカ合衆国大統領であったジミー・カーターによって、アメリカ国内の航空規制が緩和された。これによって、当時参入が規制されていた航空業界に、民間の航空会社も自由に参入できるようになった。

それによって、イースタン航空は展開の自由度が高まり、マイアミ-ロンドン線などの長距離国際線にも進出できるようになった。しかし、一方では新規参入してくる格安航空会社との接戦が始まった。もともと人件費や固定費のコストが高いイースタン航空は、低運賃を武器に攻勢を強める新しい航空会社や、デルタ航空などの他の大手航空会社との戦いで苦戦を強いられた。また、ボーマンが導入した新型機の導入コストが大きな負債となって重くのしかかってくるようになった。

1980年、ボーマンに代わって社長となったチャールズ・ブライアンは、労組よりの人物でVEPを拡大したために、イースタン航空の業績は急速に悪化。再び赤字に転落してしまった。

旧社の経営破綻

業績が悪化したイースタン航空は賃金カットを提示し、また倒産したブラニフ航空から南アメリカ路線を買収して立て直しを図った。しかし、賃金カットには失敗し、南アメリカ路線も収益拡大には寄与しなかった。

このため、1986年2月にイースタン航空の経営陣は同社をテキサス・インターナショナルに売却することを決定した。テキサス・インターナショナルを率いるフランク・ロレンツォは、経営危機に陥っていたコンチネンタル航空連邦倒産法第11章適用という荒療治で再生した実績を持っており、経営陣はイースタン航空をコンチネンタル航空のように再生してくれることを期待したのである。 しかし、そのロレンツォでもイースタン航空の再建はできなかった。ロレンツォは賃金カットを試みたが、労働組合ストライキで対抗し、同社の業績は悪化するばかりであった。

1989年、ロレンツォはついに連邦倒産法第11章の適用を申請し、一部の機材や空港施設、路線を4億5千万ドルで売却。ドル箱路線だったニューヨーク - ワシントンD.C.やボストンとの間のシャトル便も「不動産王」と呼ばれる億万長者ドナルド・トランプへ3億5千万ドルで売却してしまった(その後同路線の運航は、トランプが設立したトランプ・シャトルへ引き継がれた)。しかし、これだけ資産を売却したにもかかわらず、1989年の業績は8億ドルもの赤字に終わった。

こうして、かつてはアメリカの4大航空会社の一つと言われ、シャトル便の開設やエアバス機の導入などで世界の民間航空業界に大きな影響を与えたイースタン航空も、この頃にはその栄光は見る影も無くなり、ローカル航空会社へと転落してしまっていた。

旧社最後の社長となったマーチン・R・シャグルは、サービス向上を図り、顧客を呼び戻すためのキャンペーンを展開したが、結果は5億ドルの赤字に終わってしまった。1991年1月に湾岸戦争が始まり、航空需要が落ち込むと、もうイースタン航空にはそれに耐える力は残っていなかった。1991年1月18日の深夜をもって、初代イースタン航空は全ての運航を停止し、その歴史に幕を閉じた。

復活の試み

2009年、フロリダ州のある企業グループが、初代イースタン航空の商標などを買い取った。2012年に、その企業グループが、二代目のイースタン航空を運営する新会社"イースタン・エアライン・グループ(Eastern Air Lines Group, Inc.)"が設立された。その後、二代目イースタン航空は、2015年の復活に向けた活動を本格化させている。

2014年1月、連邦航空局へ事業開始の申請を行い[2]、さらに5月にはボーイング737を発注、7月には三菱航空機が開発中のMRJの購入に関する覚書を締結したと発表[3] [4]


旧社が所有していた主な機材

機材の塗装は1964年以降、白地に濃淡のブルーのストライプ(そのラインの形から「ホッケースティック」と呼ばれていた)が入れられていた。1980年代に入って経営が悪化すると経費節減などの観点から、エアバスA300以外は白い塗装が省略され、濃淡ブルーのラインも窓の部分から窓の下へと移された。

太字ローンチカスタマーとなった機材

旧社における航空事故

初代イースタン航空は、いくつかの航空事故を起こしている。以下は、年代別に並べたものである。

参考文献

  • 賀集章『消えたエアライン』(2003年 山海堂)

関連項目

脚注

  1. NASA運営のサイト"U.S. Centennial of flight"より"Eastern Ailines"でも"Eastern Airlines was one of the “Big Four” airlines"と紹介されている。
  2. Group files to bring back Eastern Air Lines(CNN 2014年1月30日 2014年6月6日閲覧)
  3. 復活へ向けた機材発注 イースタン航空が737-800と737 MAXを購入へ(FlyTeam 2014年5月18日 2014年6月6日閲覧)
  4. イースタン航空とMRJの購入に関する覚書を締結(三菱航空機株式会社 2014年7月14日 2014年7月15日閲覧)

外部リンク

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