アンドレ・ブルトン

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アンドレ・ブルトンAndré Breton, 1896年2月19日 - 1966年9月28日)は、フランス詩人文学者、シュルレアリスト。ちなみに、誕生日については、ブルトン自身しばしば2月18日とも公言しているが、それは「詩的」な意味でのことで、書類などでも2月19日生まれとはっきり記されている。

経歴

第一次世界大戦頃、当時フランスではあまり知られていなかったフロイトの心理学に触れ、終戦後ルイ・アラゴンフィリップ・スーポーらとともに、ダダに参加するも、1920年代に入って、トリスタン・ツァラと対立し、ダダと決別。以後、アラゴンやスーポー、またロベール・デスノスRobert Desnos)らとともに新たな芸術運動を展開、眠りながらの口述などの実験を試み、1924年、「シュルレアリスム宣言」の起草によって、シュルレアリスムを創始した。

以後、『シュルレアリスム革命』誌の編集長となり、シュルレアリスムに感化された多くの芸術家がパリに集まる。ブルトン自身は、拡大していくシュルレアリスムの中心的存在、「法王」として君臨し続け、『ナジャ』などの作品や、多くの評論を著した。第二次世界大戦中にはアメリカ合衆国ニューヨークに亡命していたが、マルティニークを経由した際にエメ・セゼールと出会い、『熱帯』や『帰郷ノート』に衝撃を受けた。亡命後は合衆国でも活動を続け、戦後はフランスに戻る。

シュルレアリスムから芸術家たちが離れていく中で、ブルトンは終生そのシュルレアリストとしての立場を貫いた。

ダダの活動を経ているためでもあるだろうが、著書の中では既存の芸術を批判していることが多い。ただし、ルネサンス期の画家ウッチェロを好んでもいた。

パリ9区のフォンテーヌ通り42番地にアパルトマンを持ち、ブルトンの書斎には、絵画などの芸術作品だけでなく、アフリカの民芸品などが多数あり、ブルトンはそれをときには交換や、寄付をするなどしていた。ブルトンの娘オーブらが守ってきたそれらの膨大なコレクションは、批判がありながらも、2003年オークションにかけられることになった。

2008年5月21日には、ブルトンの「シュルレアリスム宣言」など9点の自筆原稿がパリのサザビーズでオークションにかけられ、パリの書簡・直筆原稿博物館が、360万ユーロ(約5億8千万円)で落札した。

共産主義との関係

1926年頃、ブルトンらのシュルレアリスム運動は、当時の革命的組織、共産党からの厳しい批判を受ける。「正当防衛」などによっての自己弁護も、ほとんど理解されず、結局ブルトンは、数人の同志とともに、あえて共産党に入党するということを選んだ。それでも共産党からの追求は厳しく、また思想などが本質的に異なっていたために、結局離れることになる。しかし、アラゴンエリュアールなどは、後に共産主義に進んだ。シュルレアリストのグループ内で、共産主義の集団に「反啓蒙的な傾向がある」と、ブルトンは判断していたらしい。

ただし、ブルトンはトロツキーの著書『レーニン』に感銘を受け、それ以来影響を受けてもいる。1940年頃には、当時メキシコシティの隠れ家に住んでいたトロツキーを訪ね、一つの著書を共同執筆することとなった。

シュルレアリスム宣言

1924年作。シュルレアリスムを運動として組織し、拡大させるきっかけとなった書物。もともと『シュルレアリスム宣言』は、自動記述による物語集『溶ける魚』の序文として書かれていたが、シュルレアリスムという言葉をはっきりと定義したことで、宣言へと姿を変えることになった。本来の書名は『シュルレアリスム宣言・溶ける魚(Manifeste du surréalisme/Poisson soluble)』となっており、『宣言』に『溶ける魚』を併収する形をとっていた。しかし、後に出版される、いわゆる『宣言集』などでは、『第二宣言』、『第三宣言か否かの序』と、『シュルレアリスム宣言』を『第一宣言』として併収し、『溶ける魚』は切り離されることになった。

また、ブルトン著の他の作品としては、現実の女性、ナジャとの出会いで現実の背後にある超現実の存在を実感する体験を語った、ドキュメントの散文作品『ナジャ』の他、『狂気の愛』『通底器』『シュルレアリスムと絵画』など、またスーポーとの共著による、自動記述のテクストを集成した『磁場』、エリュアールとの共著『処女懐胎』などがある。

シュルレアリスムの「父」

ブルトンはシュルレアリスムを創始し、運動として組織した。その中でブルトンは前述の通り「法王」として君臨した。そのようなブルトンは、エルンストダリら多くの芸術家をシュルレアリスムから「除名」している。このブルトンの態度、行動、やり方といったものには多くの人間が反発しており、「ブルトンはシュルレアリスムの父であり、子は常に父より優れ、子であるダリはその父から離れていった」というダリ側の言い分もある。最初の妻シモーヌはブルトンとの結婚以前に、友人への手紙でブルトンを「率直な」人物と評していたが、著書にしばしば見られる過激な言葉などからも、ブルトンの人柄がいくらか知れるだろう。アラゴン、エリュアール、スーポーといった、シュルレアリスムを創始したメンバーのほとんどは、後にブルトンの元を離れている。

自動記述について

自動記述(オートマティスム)は、あらかじめ何も予定せず、先入観を捨て去り文章を書き付けるという、主に文学の表現方法で、シュルレアリスム宣言の中に示されているシュルレアリスムの定義に即したものと言えるだろう。ブルトンは自動記述を重視し、スーポーとの共著による、自動記述の方法によった文章を集成した『磁場』が、最初の「テクスト・シュルレアリスト」と言える。ブルトンは、その後もシュルレアリスム宣言に併収された物語集「溶ける魚」など、自動記述をシュルレアリスムの重要な要素としていた。しかし、シュルレアリスムの「法王」としての、教条的な態度と、自動記述法を重視する態度に、マグリットなど、反感を覚える人物もいた。日本のシュルレアリストとして知られている瀧口修造は、自動記述の方法を用いて作品を書いている。巖谷國士などは、自動記述、またその成果を高く評価している。

主な邦訳書

伝記研究

永井敦子訳 、人文書院、1997年
  • アンリ・ベアール『アンドレ・ブルトン伝』
塚原史、谷昌親訳、思潮社、1997年
  • 『三極の星 アンドレ・ブルトンとシュルレアリスム』
オクタビオ・パス、鼓宗訳 青土社 1998年

ブルトンが登場するフィクション

関連項目