アントニオ・キメンティ

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 アントニオ・キメンティ(Antonio Chimenti1970年6月30日 - ) は、イタリアプッリャ州バーリ出身のサッカー選手

経歴

サンベネデッテーゼのユース出身。トップチームでは出場機会に恵まれず、レンタルで経験を積んだ。

1993年より所属したサレルニターナではポジションを掴み、セリエC1優勝ならびにセリエB昇格に貢献した。この活躍がローマフランコ・センシ会長の目に留まり、1997年にローマへ移籍した。

ローマではミヒャエル・コンゼルとのポジション争いになり、1年目は8試合の出場にとどまったが、2年目は24試合に出場した。しかし、ポジションを固めるには至らなかった。

1999年セリエAに復帰したUSレッチェへ移籍。2年連続での残留に寄与したが、2001-02シーズンは16位に終わりセリエBに降格した。

2002年ユヴェントスに移籍。世界的GKジャンルイジ・ブッフォンの控えを務めた。2005年はブッフォンの負傷でチャンス到来かと思われたが、ライバルのミランからクリスティアン・アッビアーティが加入したため出場機会には恵まれなかった。

出場機会を得るために2006年1月2日カリアリへ移籍。アンドレア・カンパニョーロファビアン・カリーニを抑えてポジションを獲得し、21試合に出場した。しかし、翌年はマルコ・フォルティンにポジションを譲る試合が増えた。

2007年6月29日ウディネーゼへ移籍。レンタル修行から復帰したサミール・ハンダノヴィッチモルガン・デ・サンクティスの後継者としてポジションを確保したため、控えとしての扱いだったがチームをサポートした。

2008年7月19日エマヌエレ・ベラルディと交換する形で1年半ぶりにユヴェントスに復帰した。しかし、アレクサンダー・マンニンガーが同時期に加入したため第3GKに降格。初年度はブッフォンが負傷で離れる時期が多かったが、マンニンガーが代役として起用されたため出場機会がなかった。翌年、ブッフォンは左膝を手術したが、代役にはマンニンガーが起用されたため出場機会には乏しかった。

シーズン終了後に現役引退を表明した。

エピソード

  • 父親のフランチェスコと叔父のヴィトも元サッカー選手。2女の父でもある。
  • 2010年3月21日サンプドリア戦でアントニオ・カッサーノに決勝点を決められ0-1で敗れると、試合後に控え室のテーブルを叩きつけ手を骨折するという事件を起した[1]。当時はブッフォンとマンニンガーが共に離脱しておりトップチームのGKが全員負傷という事態に陥ったが、両者はその後すぐに復帰したため大事には至らなかった。

所属クラブ

テンプレート:Flagicon テンピオ 1991-1992(レンタル移籍)
テンプレート:Flagicon モンツァ 1992-1993(レンタル移籍)

タイトル

脚注

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  1. サッカー=ユベントスGKキメンティ、手を骨折ロイター通信 2010年3月23日