アントウェルペン

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アントウェルペン州内のアントウェルペン行政区の位置
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ハントシェーンマルクトのアントウェルペン大聖堂(聖母大聖堂)。低地地方最大の大聖堂であり、ルーベンス三連祭壇画がある。現在も市内最大の建造物

アントウェルペンテンプレート:Lang-nl/[ˈɑntˌʋɛrpə(n)], テンプレート:Lang-fr, テンプレート:Lang-en)は、ベルギーフランデレン地域アントウェルペン州の州都で、ベルギー第2の都市。英語名に由来するアントワープや、フランス語名に由来するアンヴェルスアンベルス[1]も日本語の表記においてよく用いられる。 2012年1月1日の総人口は502,604人。面積は204.51 km²人口密度は2,457.56人/km²。

地理

スヘルデ川 (Schelde) の右岸に位置する。スヘルデ川はオランダ南西部ゼーラント州の西部スヘルデ河口域 (Westerschelde) を経て北海につながっている。アントウェルペンには大きな正統派ユダヤ人ハシディズム)のコミュニティがあり、そこから「西のイェルサレム」との綽名がある。ダイヤモンド研磨用の円盤 (Scaif) を発明したローデウィク・ファン・ベルケン (Lodewyk van Berken) もユダヤ系ベルギー人であり、この発明によってユダヤ人のダイヤモンドカット職人が多くなり、町もダイヤモンド取引およびカット・研磨の中心として著名になった。

1990年代からはファッションの街としても名がある。これは王立美術学校の何人かの卒業生がモード界で国際的な成功を収めたことに起因する。

テンプレート:仮リンクは1843年開園で、世界でも最古また最も有名な動物園のひとつである。この動物園は市の中心部にあり、4,000種以上の動物を飼育している。王立動物学協会は多くの動物の扱いを見守っており、100年以上に渡って絶滅危惧種の保護にあたってきた。

歴史

名前の由来

街の名称は、古くは巨人アンティゴーンと英雄ブラボーの伝説に由来するとされてきた。スヘルデ川の川岸の城に住む巨人ドルオン・アンティゴーンは、城付近を通り過ぎる船に通行料を求め、それに応じない者に対しては、その手を切り落として河へ放り捨てた。しかし、ついにローマの戦士ブラボーがアンティゴーンの息の根を止め、手を切り落として河へ投げ捨てた。Antwerpen はこの出来事に由来し、handwerpen(hand 手 + werpen 投げる)に元を辿るという[2]。現在のアントウェペン市庁舎前には、この伝説を主題とする記念碑「ブラボーの噴水」がある。これは民間語源であるものの、手を切断することは実際に当時のヨーロッパで行われており、中世には死者の右手が切断され、「死手譲渡」の証拠として封建領主に送られることもあった。

しかし、19世紀の歴史家・外交官ジョン・ロスロップ・モトリーは、アントウェルペンという名称を「an 't werf (on the wharf、wharfは波止場)」、または「Aan 't werp(at the warp)」に由来するという議論を展開した。ここでの「warp」とは、高潮でも農地が水浸しにならないだけの土手を築いたことを指しており、農民たちは堤防の先に農地を広げていった。「werp」という語には「pol(ポルダー、干拓地)」という意味もある。

現在最も有力な説は、ガロ・ローマ文化期のラテン語「antverpia」であり、アントウェルペンはかつてのスヘルデ川の湾曲にそって形成されたとする。この語は「Ante」(before)と「Verpia (砂などの粒子が水などによって堆積、沈殿したもの)」に由来しており、スヘルデ川の湾曲に伴う堆積作用によって土地が形成されていったことを示している。ただし、スヘルデ川は7世紀から8世紀半ば頃に流れが変わっており、かつての流域は、街の南部にある現在の環状道路とほぼ一致していると考えられる。[3]

古代から中世

歴史上、アントウェルペンはガロ・ローマ文明の集落にその起源があると考えられる。スヘルデ川付近における最古の集落がある地域で1952年から1961年にかけて発掘が行われ、2世紀半ばから3世紀末の陶器や杯の破片が出土している。その後、ゲルマン人フランク族が進出した。メロヴィング朝期においてアントウェルペンに砦が築かれ、7世紀頃に聖アマンドゥスによってキリスト教化された。10世紀末、スヘルデ川は神聖ローマ帝国における境界となった。アントウェルペンには辺境伯が置かれ、フランドル伯と対峙した。11世紀、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが、数年間アントウェルペンを治めた。12世紀、聖ノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン)が、プレモントレ会則に基づくサン・ミシェル修道院を建てた。14世紀前半に英仏百年戦争が勃発するが、フランドル地方の毛織物産業はイングランドの羊毛産業と密接なつながりがあったため、親イングランドの立場をとろうとした。そのため、フランス王と結んでいるフランドル伯に対抗して、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデがフランドル都市連合指導者となり、イングランド側を支持する姿勢をとった。アントウェルペンは、この百年戦争初期にイングランド王エドワード3世とヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉にとりかかった際の拠点でもあった。エドワードの息子ライオネル・オブ・アントワープは、アントウェルペンで生まれている。

15世紀前半、フランドル諸都市は、イングランド産毛織物の流入によって市場を奪われることを望まず、ブルゴーニュ公に働きかけて輸入禁止の措置をとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームはイングランドの毛織物商人を受け入れたため、イングランド産毛織物がアントウェルペンに流入した。この毛織物をライン川沿いのケルン商人が購入し、南ドイツなどへ供給するようになった。[4]15世紀半ばには、ニュルンベルクアウクスブルクなどの南ドイツ商人が、直接にアントウェルペンまで取引に訪れるようになった。これにより、香料をブルッヘ経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手できるようになった。こうした状況が近世アントウェルペン繁栄の前提となった。[5]

近世

このような商業網の変化に加え、ズウィンが土砂の堆積によって航行困難となったこともあり、中世後期におけるネーデルラント経済の中心ブルッヘが衰退していき、それに代わってスヘルデ河畔のアントウェルペン(当時はブラバント公国の支配下)が重要性を増すことになった。ライン川沿いのケルン商人との結びつきを強めたことでヨーロッパ商業網における地位は一層強化され、15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始めた。1501年にはスヘルデ河岸にポルトガル船が香辛料などを積んで到来し[6]、1508年にはポルトガル王のもとで商館が設立され[7]、1510年におけるイングランド商館についての記載も史料に残されている。

歴史家フェルナン・ブローデルは、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」[8] と評している。そのアントウェルペンの黄金時代は、強く「大交易時代」と関連しており、16世紀前半より成長を遂げて1560年までにはアルプス以北における最大規模の都市となった。多くの外国商人が街に居住し、ポルトガル船からは胡椒やシナモンなどの積荷が日々下ろされていた。ヴェネツィアの大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニは、何百の船舶が一日に往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくることを記している。

ヴェネツィアやジェノヴァの繁栄は各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていたが、アントウェルペンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられており、このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していった。(市政は地元の土地貴族らによる寡頭政がとられていたが、彼らは原則上実業に従事することを禁じられていた。)宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島を追われた「マラーノ(マラノス)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともなり得たのである。しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由都市自治共和国」というわけではない。一時はブリュッセルのブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。

アントウェルペンはこの黄金時代に1501年から1521年、1535年から1557年、1559年から1568年と3回の好況を迎えた。[9]最初の繁栄は、ポルトガルからもたらされた胡椒であった。この好況は1521年よりイタリア戦争が深刻化し、ヴァロワ家ハプスブルク家の間の戦乱によって国際商業が麻痺したことで収束していった。次の時期は、セビーリャ経由でアメリカ大陸産の銀が流入したことであった。これはスペインの国家財政が破綻する1557年に収束していった。最後の時期は、1559年にカトー・カンブレジ条約(イタリア戦争の最終的な講和条約)が締結されたことに伴う政治的安定であった。この時期にはイングランドと競合しつつも繊維産業が発展をみせた。

当時のコスモポリタン的性格を持つ商業拠点という特質は、この都市にもう一つの重要な特徴を与えた。それは出版文化の一大拠点という機能である。16世紀のアントウェルペンは、現地フラマン語の文献のみでなく、英語やフランス語の出版・輸出拠点として栄えた。のみならず、宗教的に寛容な性格のためプロテスタントの文献も多く出版されたのである。結果として、当時のネーデルラントで出版された文献のうち、実に半数以上がアントウェルペン刊だったとされている[10]。16世紀後半で最も偉大な印刷出版業者ともいわれる[11]クリストフ・プランタンの工房は市内に現存しており、プランタン=モレトゥス博物館世界遺産)として、当時の出版文化を伝えている。

他方、コスモポリタン的性格の裏面として、海賊版の出版拠点となっていたことも事実である。中には、他の都市の業者の中にも、何らかの事情で版元を明かさず出版するときに、出版地をアントウェルペンと偽るケースも見られた[10]。リヨンの大手ブノワ・リゴーも、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空の名義で出版したことがあった[12]

アントウェルペンの人口は、1500年には4万数千であったが、八十年戦争(オランダ独立戦争)勃発以前には10万を越えた。建造物の数も倍増した。その反面で貧困層も増加し、好不況の波と持続的な物価上昇は、未熟練労働者・荷運び人夫などの生活を苦しめることになった。

イタリア戦争後、スペイン王フェリペ2世は異母姉であるパルマ公妃マルゲリータネーデルラント17州の執政(全州総督)に任じた。フェリペ2世はネーデルラントの統制強化を図り、宗教的にはカトリックの強制を図ったため、ネーデルラント各地で集権化に反発する貴族やプロテスタントとの反目を生じさせた。1566年8月よりネーデルラント各地に広がった反乱は鎮静化したものの、この際のマルゲリータの対応に不満を持ったフェリペ2世は、1567年8月により強硬姿勢をとるアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣した。しかし、対立はより先鋭化して翌年に八十年戦争(オランダ独立戦争)が勃発した。この戦争によってスペイン北部のビルバオとアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなり、イベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川の封鎖も同市の経済を苦しめた。さらに1576年11月4日、スペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を行った。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われた。この被害額は200万スターリングにも及んだとされる。

この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが(ヘントの和約)、アントウェルペン市民の反スペイン感情は深まった。1579年のユトレヒト同盟にもアントウェルペンは加わり、反スペインの姿勢を鮮明とした。しかし、1583年末までに同市の周辺地域はスペインに占領されており、オラニエ公ウィレム1世もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと、1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降服を余儀なくされた。

降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられた。[13] そのほとんどがネーデルラント連邦共和国オランダ)へと移住したことは、オランダが黄金時代を築いていく前提となった。一方、その後のアントウェルペンにおける銀行業務はジェノヴァ商人の統制下におかれた。こうしたことの結果、アントウェルペンに代わってオランダのアムステルダムが世界商業・金融の中心地となっていった。

1648年、三十年戦争の講和条約であるヴェストファーレン条約(そのうちのミュンスター条約)でオランダの主権が認められると、オランダはアントウェルペンの商業活動に壊滅的な打撃を与えるため、スヘルデ川の河口を閉鎖することを要求した。これには、スペイン・ハプスブルク家の統治下にある南ネーデルラントがオランダの脅威にならないようにする狙いがあったのであるが、ネーデルラント南部が1795年から1814年まではフランスの統治下にあったこと、1815年から1830年まではオランダ立憲王国の統治下にあったことで、実際にはその統制は緩められていた。

近現代

1800年頃、アントウェルペンは最も停滞した時期を迎え、当時の人口は4万人以下にまで沈んだ。しかしナポレオン・ボナパルトは、アントウェルペンの戦略的重要性から、防波堤と2つのドックを建設するために港の拡張を図り、スヘルデ川にもっと大きな船舶が接岸できるように川底を掘り下げようとした。ナポレオンは、アントウェルペンの港をヨーロッパ屈指のものとすることで、ナポレオンと対立するイギリスのロンドン港に対抗し、イギリスの力を抑えようとしたのである。しかし、ワーテルローの戦いで失脚したため、この構想は実現しなかった。[14]

1830年、アントウェルペンはオランダからのベルギー独立を目指す反乱軍によって包囲された。ダヴィド=ヘンドリック・シャッセ将軍が統率するオランダ守備兵がアントウェルペンを防衛したが、ベルギー軍の断続的な砲撃によって打撃を受け、フランス軍によるベルギー支援もあって、シャッセは勇敢に戦ったものの降服を余儀なくされた。

1843年にはケルンとアントウェルペンの間が鉄道で結ばれ、近代アントウェルペンの発展に貢献した。1863年にベルギーがオランダからスヘルデ川の航行自由権を買収したことも街の発展に寄与した。

1903年、初めての世界体操競技選手権がアントウェルペンで開催された。第一次世界大戦中、ベルギーは中立国だったにもかかわらずドイツ軍の攻撃を受け、アントウェルペンはリエージュで敗れたベルギー軍の退却地点となった。その後、さらなるドイツ軍の厳しい攻撃によって、ベルギー軍はさらに西方への撤退を余儀なくされた。

アントウェルペンは1920年の夏期オリンピック開催地となった。1928年、アントウェルペンの補欠選挙で、「フロント党」のアウグステ・ボルムスが勝利した。このことがフランス系とオランダ系住民の対立を激化させ、当時の首相だったジャスパールは大学教育におけるオランダ語の使用を容認した。1936年にはアントウェルペン港で大規模なゼネストが発生し、ベルギー全土に広がりをみせた。このため組合・経営者・政府による全国労働者会議が開催され、労働者の権利が拡大した。

第二次世界大戦において、アントウェルペンはその港ゆえに戦略上の要所となった。1940年5月にドイツ軍によって占領され、1944年9月4日、イギリス第11機甲師団によって解放された。この後、アントウェルペン港から連合軍が新たな物資を荷揚げすることを防ぐため、幾千ものV-1V-2ミサイルを使って港を破壊しようとした。とりわけV-2ミサイルは戦争を通じてアントウェルペンに打撃を与えたが、その多くが他の建造物に当たったため港は破壊できなかった。その結果、大戦を通じて港は守られたものの街は深刻な打撃を受け、大戦後になってモダン風に再建された。また、戦前よりかなりのユダヤ教徒がアントウェルペンにいたが、大戦後には再び超正統派正統派ユダヤ教の中心地となった。

人口と言語

人口

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言語

オランダ語がアントウェルペンの公用語である。地元の人々はそのアントウェルペン方言を用いている。いくらかの人々の間ではフランス語も話される。大多数の住民、特に若い世代の多くはかなり流暢な英語を話す。モロッコやトルコなどからの移民はアラビア語ベルベル語トルコ語などを用いている。若干の正統派ユダヤ教の人々はイディッシュ語を話す。

行政区

行政区域としてのアントウェルペンは9つの地区からなる。

  1. アントウェルペン
  2. ベルヘム
  3. ベーレンドレヒト=ザントフリート=リロ
  4. ボルヘルハウト
  5. デールヌ
  6. エーケレム
  7. ホーボーケン
  8. メルクセム
  9. ウィルレイク

商業

全米港湾当局協会 (American Association of Port Authorities) によれば、2005年時点でアントウェルペン港はトン数で世界第17位の港湾であり、ヨーロッパ内でもロッテルダム港に続く2位となっている。同港は高価値のジェネラルカーゴ(雑貨物)やプロジェクトカーゴ(重量貨物)、またバルクカーゴを大量に取り扱っている点で重要である。アントウェルペンの港湾地区には5つの石油精製所があり、アメリカテキサス州ヒューストンに次ぐ規模の石油化学工業の集積地となっている。また発電所も重要な施設であり、近隣のオースト=フランデレン州ベフェレンのドエル地区 (Doel) に4基の原子力発電所、同じくカロ (Kallo) に1基の火力発電所があり、加えて小規模のコンバインドサイクル発電所が数か所にある。さらに、港湾地区の中の利用されていない土地に風力発電所を建設する計画もある。

市街中心部の北から南へ テンプレート:Convert にわたって続いているスヘルデ川沿いの波止場は、クルーズ客船や近海航路の乗船場として利用されている。

アントウェルペンのもう一つの主産業はダイヤモンドの取引である。市内には4つの取引所があり、1つはボルツと呼ばれる不透明のダイヤ専門、ほか3つは一般品質のものを扱っている。第二次世界大戦以降、市内のユダヤ人コミュニティ出身の各家族がダイヤ取引業界を一手に取り仕切っているが、1990年代頃からはインド人・アルメニア人の業者も増えてきている。アントウェルペンにある「アントワープ・ワールド・ダイヤモンド・センター」(Antwerp World Diamond Centre, 前身は "Hoge Raad voor Diamant")は、ダイヤの品質基準の設定、業者の倫理の取り決め、職人の訓練、またダイヤ産業の中心地としてのアントウェルペンを広く宣伝することに大きな役割を果たしている。

交通

道路

高速道路が中心部を取り囲む形で整備されており、地元では「Ring」と称されている。この高速道路がブリュッセルハッセルトリエージュヘントリールブルッヘなどの主要都市のほか、オランダのブレダベルゲン・オプ・ゾームなどと結ばれている。スヘルデ川の両岸は3本のトンネルで結ばれており、建設順にthe Waasland Tunnel (1934)、the Kennedy Tunnel (1967)、the Liefkenshoek Tunnel (1991)となっている。

鉄道

アントウェルペンから各地に鉄道路線が広がっている。北へはエッセンを経てオランダへ、東にはトゥルンハウト、南にはメヘレン、ブリュッセル、シャルルロワ(途中で乗り換え)、そして南西にはヘントやオーステンデへ至る路線がある。国際列車としては、アムステルダムパリを結ぶ列車がアントウェルペンに停車する。アントウェルペンのほか、ヘント、ブルッヘ、オーステンデ、ブリュッセル、シャルルロワ、ハッセルト、リエージュ、トゥルンハウトなどにも停車する。

アントウェルペン中央駅は、その駅舎自体が歴史的記念碑としての価値を有しており、W・G・ゼーバルトの代表作『アウステルリッツ』でも登場する。2007年には高速列車通過のためのトンネルが建設された。詳細はベルギー高速鉄道4号線を参照。

市内交通

アントウェルペンには「De Lijn (The Line)」によって運営されているトラムとバスの交通網が張り巡らされており、アントウェルペン中心部と郊外やスヘルデ川左岸地区を結んでいる。そのうちトラムは全12路線で、そのうち地下鉄のように運行されているものは「premetro」と称されており、河川の下にトンネルが掘られている。

空路

アントウェルペン国際空港がデールヌ地区にある。VLMエアラインズが英国のロンドンシティ)やマンチェスターとを直接に空路で結んでいる。市の中心部から空港までは数kmで、バスと鉄道が運行している。

文化

アントウェルペンにはアントウェルペン王立芸術学院があり、優れたファッション・デザイナーを輩出している。特に1980年代に頭角を現してきた6人は「アントウェルペンの6人」と呼ばれ、現在でも国際的に活躍している。

アニメで一躍有名となった物語『フランダースの犬』の舞台でもあるが、現地の人にはあまり知られておらず、ゆかりの地を訪ねてやってくる観光客はほとんど日本人である。また、リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』は、10世紀のアントウェルペンを舞台としている。

世界遺産

アントウェルペン市内には、世界遺産に登録されている物件が3つある。

また、世界遺産暫定リスト登録物件として、以下の2件が存在している[15]

スポーツ

アントウェルペン出身の人物

芸術家

スポーツ選手

姉妹都市

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:夏季オリンピック開催都市

  1. Anvers の発音にはベルギー式とフランス式があり、ベルギー式は「アンヴェルス」、フランス式は「アンヴェール」に近い(『仏和大辞典』白水社、などの辞典類の発音記号に基づく)。
  2. Brabo Antwerpen 1 (centrum) / Antwerpen
  3. Antwerp Tourist Information - Meredith Booney, "The name 'Antwerp' has been linked to the word "aanwerp" (alluvial mound), which was the geographical feature in the early settlement period in this place".
  4. 中澤勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文館、pp.30-31
  5. 中澤勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文館、p.44
  6. 中澤勝三『アントウェルペン国際商業の世界』同文館、p.66
  7. フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、pp.186-187
  8. フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、p.181
  9. フェルナン・ブローテル『世界時間1 物質文明・経済・資本主義15-18世紀Ⅲ-1』村上光彦訳、みすず書房、1996年、pp.185-186
  10. 10.0 10.1 宮下志朗「16世紀出版文化の中のノストラダムス」(『ノストラダムスとルネサンス』岩波書店、pp.133-135)
  11. http://whc.unesco.org/en/list/1185/
  12. Lucien Scheler,”Une supercherie de Benoît Rigaud”, BHR, T.16, 1954.; Anne Rouzet, Dictionnaire des imprimeurs, libraires et éditeurs des XVe et XVIe siècles dans les limites géographiques de la Belgique actuelle , Nieuwkoop ; B de Graaf , 1975
  13. Boxer Charles Ralph, The Dutch seaborne empire, 1600-1800, p. 18, Taylor & Francis, 1977 ISBN 0091310512, 9780091310516 Google books
  14. Dunton, Larkin (1896). The World and Its People. Silver, Burdett. p. 164.
  15. http://whc.unesco.org/en/statesparties/be