アルベルト・ジャコメッティ

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アルベルト・ジャコメッティAlberto Giacometti, 1901年10月10日 - 1966年1月11日)は、スイス出身の20世紀彫刻家

ジャコメッティはおもに彫刻家として知られるが、絵画版画の作品も多い。第二次世界大戦以前にはシュルレアリスムの彫刻家と見なされていたが、もっともよく知られている作品群は、大戦後に作られた、針金のように極端に細く、長く引き伸ばされた人物彫刻である。これらの作品はしばしば実存主義的と評される。スイスのイタリア語圏の出身だが、主にフランスで活動した。

生涯

ジャコメッティは、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォ(現在グラウビュンデン州マローヤ地区のスタンパの一部)に生まれ、近郊のスタンパの町で育った。父のジョヴァンニ・ジャコメッティ(1868-1933)はスイス印象派の画家であった。また、1歳違いの弟ディエゴ・ジャコメッティ(1902-1985)は兄の助手およびモデルを務め、後には家具製作者となった。

ジャコメッティは、高等学校卒業後、1919年ジュネーヴ美術学校に入学するが、入学後数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校モーリス・サルキソフ(1882-1946)の下で彫刻を学んだ。1920年ヴェネツィア1921年にはローマに滞在した後、1922年パリに転居し、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールでロダンの弟子アントワーヌ・ブールデルに学んだ。

1920年代半ばから弟のディエゴと共同でアトリエを構え、1927年前後からパリのサロン・デ・テュイルリーで作品を発表しはじめた。この頃のジャコメッティは、写実的な彫刻にはあきたらないものを感じ、キュビスム、シュルレアリスム、原始彫刻などの影響を受けた作品を制作した。パリではピカソエルンストミロらの画家、シュルレアリスム運動の主唱者アンドレ・ブルトンらのほか、ジャン=ポール・サルトルポール・エリュアールらの文人とも交友があった。1932年作の『午前4時の宮殿』はこの頃の代表作で、シュルレアリスムの絵画を立体に移したような作品である。

彼は1935年、それまでのシュルレアリスム的作風を放棄して、再び人物モデルを写生する伝統的方法に戻り、シュルレアリストのグループからも離脱した。第二次世界大戦中の1942年にいったん故国のジュネーヴに戻り、大戦後の1946年、再度パリに移住する。

ジャコメッティは大戦前にも細長い人物像を作っていたが、大戦後の1950年頃から作られはじめた人物像は、肉付けも凹凸もなく、「彫刻」としての限界と思えるほどに細長いものである。サルトルは、これらのジャコメッティの人物像を、現代における人間の実存を表現したものとして高く評価した。なお、古代イタリアのエトルリア文明にも細長く引き伸ばされた人物彫刻があり、それとの関連も指摘されている。

1962年ヴェネツィア・ビエンナーレでジャコメッティのために1室が与えられるなど、晩年には国際的に高く評価されるようになった。また晩年には絵画、版画など平面芸術への回帰もみられる。版画集『終わりなきパリ』は1958年から1965年にかけて制作した石版画150点を収録し、ジャコメッティ自身によるテキストを付したもので、晩年の代表作である。1966年、スイスのクールで没した。

その他

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100スイス・フラン札に描かれているアルベルト・ジャコメッティの肖像

1998年10月から発行されている、スイスの現行第8次紙幣の100フラン紙幣に、彼の肖像が描かれている。紙幣の裏面は「歩く男」である。

1950年半ばにフランス留学した哲学者矢内原伊作と深い親交を結び、矢内原をモデルにして作品を制作した。ある年には、矢内原にモデルを務めてもらうためだけに、日本からパリへ矢内原を呼び寄せることもあった。矢内原は、ジャコメッティのアトリエでの様子について詳細な記録を残しており、それらを矢内原と宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にて発表し続けた。(それらは後に、『ジャコメッティ』(みすず書房)等にまとめられた。)また同誌には、ジャコメッティが書いたエッセイも、同人らによって翻訳され、いち早く掲載された。 その他、矢内原による記録は『完本ジャコメッティ手帖(1.2)』 (みすず書房)にもまとめられている。

代表作