アルプス山脈

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ファイル:Mont Blanc oct 2004.JPG
アルプス山脈最高峰 モンブラン山

アルプス山脈(アルプスさんみゃく、テンプレート:Lang-la-short アルペース、テンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-it-shortテンプレート:Lang-de-shortテンプレート:Lang-en-short)は、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である。オーストリアスロベニアを東端とし、イタリアドイツリヒテンシュタインスイス各国にまたがり、フランスを南西端とする多国にまたがっているため、大きくは東・西アルプス山脈に分けられ、東アルプス山脈ジュリアアルプス山脈など、西アルプス山脈ペンニネアルプス山脈などの支脈にさらに細かく分かれている。アルプ(スイスの高山山腹の夏季放牧場;テンプレート:Lang-enテンプレート:Lang-frテンプレート:Lang-de)がいっぱいであるからアルプスであると考える説と、ケルト語の alp「岩山」を語源とし、ラテン語を経由したと考える説がある。最高峰のモンブランは標高4,810.9m(2007年)で、フランスとイタリアの国境をなし、ヨーロッパの最高峰[1]でもある。

概要

アルプスは、モンブランの他、マッターホルンユングフラウなどの高峰を有し、最高部は氷河に覆われる交通の難所である。しかしイタリアよりヨーロッパ各地域へ通じる要路に位置するため、戦争交易のための移動経路となり、中世には巡礼大学生、近世においてはまた各地を見物するための旅行者など、多くのものがアルプス越えを行った。古代から中世にかけて主に用いられたを西から列挙すれば、シンプロン峠(サンプロン峠と読まれることもある)、ジュネーヴ山越えの道、グラン・サン・ベルナール峠、シュプルーゲン峠、ゼプティマー峠、ブレンナー峠、ラートシュタッター・タウラーン峠、ゾルクシャルテ峠、プロッケン峠、ポンテッバー峠(別名をザイフニッツ峠)である。歴史を通じて最も多用されてきた峠はジュネーヴ山越えの道およびブレンナー峠であるが、各時代によって、愛用される峠は若干異なる。13世紀にはザンクト・ゴットハルト峠が開通したことで、その麓に当たるウーリ州シュヴィーツ州ウンターヴァルデン州の3州が力をつけ、この地方を地盤としていたハプスブルク家の軍を破ってスイス誓約同盟を結成するなど、アルプスの交通路は大きな利益を生み、時に争奪の対象となった。

なおこれらの峠のうち幾つかの下には、近代に至ってトンネルが掘削され、各国国境をまたがる鉄道線路および自動車道路が敷設されている。

アルプス越えをした有名人は多いが、そのうち最もよく言及されるのは古代カルタゴのハンニバル・バルカによるアルプス越えであろう。彼は大規模な軍を率いて初めてアルプスを越えた将軍であり、この予想だにせぬ方向からの奇襲によってローマを驚かせた。ただ、ハンニバルが実際に通った場所がどこだったかについてはいまだに定説がない。中世では、フランク王国カール大帝ランゴバルド王国と戦うためにアルプスを越えた。またナポレオン1世がイタリアを攻略した時のアルプス越えも知られている。このときナポレオンは自らをハンニバルになぞらえて鼓舞したという。ナポレオンがイタリア攻略の際のアルプス越えで利用したのは、グラン・サン・ベルナール峠である。このアルプス越えの時のナポレオンの雄姿(白馬に騎乗した姿)を、ナポレオンに仕えた宮廷画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが、「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」として描いている。

ヨーロッパの多数の河川の水源地となっており、ここからドナウ川ライン川ローヌ川ポー川、といった大河川が流れ出て、それぞれ黒海北海地中海アドリア海へと注ぐ。

産業

農業は主に標高が低く温暖な渓谷部分で行われているが、アルプスでは酪農が広く行われている。かつては冬の間は渓谷にある牛小屋で牛を飼い、春になると中腹の牧草地で、夏にはさらに高いところにある牧草地へと牛を移動させ、秋が来るとまた牛を低地へと移動させる移牧が盛んに行われていたが、手間がかかるため近年では姿を消しつつある。また、林業やそれを基盤とした製材業も行われている。製材業のほかにも、時計などの精密機械工業などの工場も多く立地している。こうした工場を動かすエネルギー源は、山脈中のダムや滝に設置された水力発電所から得られる豊富な電力を利用している。

近世後期より、アルプス山脈の各高峰に挑む登山家が現れた。1760年ジュネーヴ大学の教授であったオラス=ベネディクト・ド・ソシュールが当時未踏峰であったモン・ブランへの初登頂に対して20ターラー懸賞をつけたことが近代登山の創始とされる。ソシュール自身は1785年に登頂に挑戦したものの失敗し、結局翌1786年にシャモニーの医師ミシェル・パカールとポーターのジャック・バルマによってモンブランの登頂が成し遂げられた。この後もソシュールは研究を目的としてアルプスの高峰に登り続けた。このほか、ルイ・アガシーなども研究目的で登山を行っている。

この後、19世紀半ばにスポーツ登山がはじまる。1854年にはイギリス人のウィルスがウェッターホルン登頂を成し遂げ[2]1857年にはイギリス英国山岳会(アルパイン・クラブ=アルプスのクラブ)が発足する。1865年にはエドワード・ウィンパーによってマッターホルンが登頂され、この時期にスポーツとしての登山がアルプスを舞台として成立した。

同時期、アルプス山脈は避暑地として注目されるようになり、観光産業が大きく発展した。20世紀にはいるとスキーがこの地域に導入され、1930年代に施設や器具の改良が行われて大衆化が進み、各地にスキー場が開設されるようになった。現在では夏は冷涼な気候と美しい自然を求める観光客が訪れ、冬はスキーなどウィンタースポーツを楽しむ多くの観光客を集める一大観光地となり、観光産業がこの地域の主要産業のひとつとなった。かつては夏が最も観光客の多いシーズンであったが、近年ではスキー客の増加する冬が観光収入が高くなってきている[3]。スキー種目のうち滑降競技の別名「アルペン競技」の名はアルプスに由来する。アルプス山脈の山麓および山中の都市は、しばしば冬季オリンピックの開催地となっている。フランスのシャモニーで開催された第1回のシャモニーオリンピック(1924年)から、第2回のスイス・サンモリッツ、第4回のドイツ・ガルミッシュパルテンキルヒェン、第5回のサンモリッツ、第7回のイタリア・コルティナダンペッツォ、第9回のオーストリア・インスブルック、第10回のフランス・グルノーブル、第12回のインスブルック、第16回のフランス・アルベールビル、第20回のイタリア・トリノと、2010年現在の21回のうち10回がアルプス山脈で行われており、この地域のウィンタースポーツの盛んさと施設の充実を示している。

成因

漸新世から中新世にかけアフリカ大陸がヨーロッパ大陸へ衝突したことで、白亜紀テーチス海で堆積した地層が圧縮され盛り上がって出来た。強い圧力は横臥褶曲と衝上断層により地層にナッペと呼ばれる壮大な遠方移動を生じさせた。今日の景観は過去2百万年間にあった少なくとも5回の氷期の氷河作用が作り上げたものである。最後の氷期が終わった1万年前に気候は大きく変化し、氷河は山脈の奥に後退し、アルプスの森林に巨大な花崗岩の遺石を残した。また、氷食によってえぐりとられ、U字谷となった渓谷の端には氷河の堆積物がたまって渓谷をふさぎ、コモ湖ボーデン湖ルガーノ湖レマン湖ルツェルン湖といった細長い氷河湖がアルプス全域に散在することとなった。現在でも、アルプスには大小1300の氷河が存在し、アルプス全体の2%を占めている[4]

主要峰

ファイル:Jalovec Kotovo sedlo.jpg
アルプス山脈の一つ、スロベニアのヤロヴェツ

峠一覧

脚注

  1. ヨーロッパとアジアの境にあるカフカース山脈エルブルース(5,642m)をヨーロッパ最高峰とする考え方もある。
  2. 「国民百科事典1」平凡社 p122 1961年2月1日初版発行
  3. 「ビジュアルシリーズ世界再発見4 イギリス・中央ヨーロッパ」p126 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷発行
  4. 「ビジュアルシリーズ世界再発見4 イギリス・中央ヨーロッパ」p124 ベルテルスマン社、ミッチェル・ビーズリー社編 同朋舎出版 1992年5月20日第1版第1刷発行

関連項目

テンプレート:Sister 東アルプス山脈

西アルプス山脈

アルプス山脈に関連した項目

その他「アルプス」を冠した項目

外部リンク