アニメの歴史

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テンプレート:国際化 アニメの歴史(アニメのれきし)では、特にことわりがなければ日本のテレビアニメ史についてあつかう。アニメーション映画も参照のこと

歴史

前史

世界

アニメーションは、セル画によるものだけでなく、人形CGスライドによるものを含む。1902年ジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。

作品としては、1892年フランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。他にアメリカテンプレート:仮リンク監督による『テンプレート:仮リンク』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1928年から『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。

世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『テンプレート:仮リンク』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンキリーノ・クリスティアーニによって製作された。

1914年にセル画によるアニメーション技術がテンプレート:仮リンクによって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった(『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)、『フェリックスの初恋』(1919年、原題Feline Follies)など)。また、アルゼンチンドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。

アジアでは1941年に中国においてテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。

日本

日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて製作された。下川凹天幸内純一北山清太郎の3人がそれぞれ別個にアニメ作品の製作を手がけ、時期的にも同時期だったため、3人のいずれもが日本のアニメの創始者と位置付けられている。3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである[1]

諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。

太平洋戦争を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による日本初の長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1942年)が生まれ、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』が産み出された。この時期軍部が提供した潤沢な予算は技術力の向上に繋がったとの評価がある。

戦後、東映1956年日本動画社を吸収合併しアニメスタジオ「東映動画」を発足。1961年には手塚治虫が「虫プロダクション」を発足させた。東映動画は劇場用アニメーション映画の製作を開始し、日本初のカラー長編アニメ映画白蛇伝』(1958年)が制作され「東洋のディズニー」を目指した目論見通りに海外へも輸出された、一方虫プロダクションは日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年)とそれに付随する日本初のテレビアニメからの長編アニメ映画鉄腕アトム 宇宙の勇者』』(1964年)を製作している。

テレビアニメの始まり

1953年にテレビ放送が始まると、番組内の一コーナーでアニメを使用する番組が作られたが、一回の放送も数分程度のものが多かった。テレビCMにも盛んにアニメーションが用いられるようになり、後のエイケンのTCJや漫画家横山隆一の「おとぎプロ」が制作に携わっている。また同年に日本初のフルコマ撮り人形アニメ『ほろにが君の魔術師』が持永只仁川本喜八郎らの手によってCMとして制作されている。1958年10月15日にカラーテレビ放送のテストプログラムとして作成された『もぐらのアバンチュール』(日本テレビ)が放送されたが、これが日本初のテレビアニメではないかと考えられていた[2]。そのフィルムは長らく行方不明になっていたが、2013年になって日本テレビの倉庫から“発見”された。そのことが新聞等で報道され、さらにその一部が2013年6月19日放送のZIP!およびスッキリ!!で公開され、日本発のTVアニメがカラー作品という事実が確証された[3]。続く1960年1月15日に30分番組の『新しい動画 3つのはなし』(NHK)が放送された。これは中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメ化したものである。この時代に始まった短いアニメを利用した番組は、『みんなのうた』(NHK、1961年放送開始)がある。同年、おとぎプロ制作による日本初の連続短編テレビアニメ『インスタントヒストリー』(放送時間1分、1961年5月8日~1962年2月24日)がフジテレビで放送された。だが、新聞のラジオ・テレビ欄には読売が毎回載せ、朝日が数回載せた他は、毎日、日経は掲載しなかった。さらに、アニメーションは長い制作期間と制作費がかかるというのが当時の映像業界の常識であり、『ポパイ』・『恐妻天国(後に『原始家族』として再放映)』・『宇宙家族』などNHKと民放とを問わず海外のアニメが盛んに放送される中、日本では本格的なアニメ番組を制作しようというテレビ局は現れず、1963年の『鉄腕アトム』を待たなければならなかった。

少ない制作費

東映動画は、手塚治虫原作の『ぼくのそんごくう』をベースとして『西遊記』を制作する際、手塚自身からの申し出もあって、ストーリーボードなどのスタッフとして手塚を招聘することになった[4]。手塚は独自にアニメーションについて研究していたが、フルモーションの長尺作品をベースとする東映動画の考え方とは必ずしも馴染まなかった点があり、独自のアニメ制作を模索することになる。

1961年放送開始の『インスタント・ヒストリー』は3分番組で実質は1分にすぎなかった。1963年に放送が始まった『鉄腕アトム』は、週1回放送の30分番組という後のテレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢と位置付けられている。このために、原作者の手塚治虫自らが制作会社虫プロダクションを興し制作を指示、虫プロスタッフの坂本雄作、山本暎一の両名がテレビアニメ企画を広告代理店・萬年社(99年に破産)に持ちかけ、企画が実現した。なおタイトルが『鉄腕アトム』と当初から決まっていたわけではなく、元虫プロ営業部次長の須藤将三によると、スポンサーが明治製菓に決まる直前まで、『鉄腕アトム』か『0マン』かは未定であったという[5][6]。ただし、手塚のテレビアニメは、撮影そのものが秒8コマのリミテッドであるだけでなく、立絵紙芝居や切り絵アニメーション、古い30年代の部分アニメなどの技法を組み合わせて、止め絵、引き絵、口パク、バンクなどを多用し、カメラによって絵を動かしており、セルの動画とはまったく別の、より古いアニメーション原理に則っている(それはフラッシュアニメなどに近い技術でありテレビアニメの技術が後に日本をゲームで成功へ導く)。

この時、手塚は「(一本につき)五十万で売って。それ以上高くしないでください。それ(くらい低価格)なら他でつくれないでしょ」と指示、「手塚さんはテレビアニメを独占するつもりだったのかどうか。萬年社は『安すぎる』と、手塚さんに内緒で百五十万円を虫プロに払っていました。実際は制作費がいくらなんて、どうでもよかった。ロイヤリティーが日銭で何百万円と入ってきたんですから。」 (虫プロ・元営業部次長・須藤将三)[5] この時の価格が業界での標準となったため、現在に至るまでアニメ業界は低予算に苦しめられることになる。しかしその反面で、一部に以下の反論もある。

  • 「バンクシステムや止め絵の多用といった単なるリミテッドアニメを越えた独自の工夫が発明された。また、放送本数の増加、価格的な国際競争力、金目当てではない作家の養成、絵の荒さを補う質の高い脚本、といった低予算だからこそ得られた利益も数多い。黎明期から多くのアニメスタジオが設立され、数多くのアニメが製作されたのも、新規参入に莫大な資本が必要無かったためである。一定の人気を得られるアニメが低予算で制作出来るので、テレビ局はアニメを次々と発注し、アニメ番組で使われる題材も更に豊富になっていった。」

虫プロのアニメを、東映動画の現場の大塚康生らは「電気紙芝居」と批判したが、東映動画の経営陣は、テレビアニメを製作しなければならないという経営上の必要性から、手塚のアシスタントを務めたこともある月岡貞夫の企画をもとに、『狼少年ケン』を製作する。また、やはり手塚に近かった石ノ森章太郎の絵で『レインボー戦隊ロビン』を作り、その友人・アシスタントの赤塚不二夫、永井豪や横山光輝などのアニメを量産することになる。宮崎駿は長編中心だが、高畑勲はテレビアニメにも関わっている。

モノクロアニメとカラーアニメ

1893年に今日の映画であるシネマトグラフが発明される以前から、フィルムを用いない映像玩具がありアニメーションの元祖とされるが、その一種であるゾートロープを改良したプラキシノスコープを使って1888年からフランスエミール・レイノーパリの蝋人形館で「光学劇場」と称して作品を上映していた。その内容は物語付きの数分間のアニメーションと言えるもので、着色も成されたものだったという。フィルムによるアニメが制作されると、カラーフィルムの発明されるのを待たずに、フィルムに1コマずつ直接着色するという手法で早くからカラーのアニメが制作されている。例えば、ウィンザー・マッケイの短編作品「リトル・ニモ」は1911年の公開である。1932年ディズニーが初めてフルカラーで製作した『花と木(Flowers and Trees)』を公開して以降、第二次大戦前にはアメリカではカラーによる短編アニメが盛んに製作され、1937年にはディズニーの初のカラー長編アニメ『白雪姫』を公開している。日本では1958年東映動画による劇場版『白蛇伝』は初のカラーによる長編の劇場作品だったが、それ以前に大藤信郎が色セロファンや千代紙を使った短編のカラー作品を発表している。このように劇場作品に於いては、海外作品を始めとして、カラーアニメは既に制作されていたが、初期のテレビアニメはテレビ放送のカラー化及びカラーテレビの普及が進んでいない事情もあって、全て白黒だった。最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』(1965年)は、アメリカ合衆国での放送を前提に資本が集められて実現した。なお、『ドルフィン王子』全3話が『ジャングル大帝』(1965年10月)に先立つこと半年前に放映されているが、放送回数が少なかったため、「ジャングル大帝」が事実上の日本カラーテレビアニメの嚆矢とされる。なお1963年12月20日から1964年にかけて全15話が放送された人形アニメーション『シスコン王子』、1964年1月25日に放映された『鉄腕アトム』の第56話はカラーで制作されたが、放送自体はモノクロであり、カラーのテレビアニメではなかった[7]。また、1958年10月15日に放送された『もぐらのアバンチュール』はカラーテレビ放送のテストプログラムとして作成されたものだが、カラーで放送されたかどうかは不明である。当時はカラー放送の実験放送期間中であり、また、国産のカラーテレビがまだ発売されていなかったため、カラーで放送されていたとしても見た人は限られたものだろうと考えられる[8]

カラーによるテレビアニメは、制作費がかかることと、カラーの受像機が普及していなかった事情から、この後も数年間は新作はカラーと白黒の作品が混在していた。ただしこれはアニメに限った話ではなく、この時代、他の多くの番組も同様にカラーと白黒が混在していた。

楠部大吉郎によるとテレビアニメはカラー化によって制作費が大幅にアップしたそうである。モノクロの時は30分240万-250万だった所がカラーで540万になった。楠部によれば歴史的にいって日本のテレビアニメの制作費がこれほど上がったのはカラー化の時だけである[9]

低年齢層に受け入れられたアニメ

当初、アニメは日本では子供達の間で特に人気があった。大人達はそれまでに見慣れていた時代劇やホームドラマのようなものに関心が高く、アニメには余り興味を示さなかった。そして初期に作られたアニメで成功した作品はほとんどが子供向きのものであった。この事情から、1960年代から1970年代にかけて制作されたアニメはほとんどが子供、特に12歳以下を対象とした内容であった。キャラクターグッズを欲しがる年齢層もこの年齢層に重なっていたため、アニメ制作会社にとってもこれは好都合であった。

このように、初めてのテレビアニメが制作されてからの約10年間は、良くも悪くもアニメは『鉄腕アトム』に多くの影響を受けていた。現在の日本のアニメは原作を持つ作品が多いが、これは黎明期のテレビアニメに原作付きの物が多かったという例に倣った結果と言える。

内製システムの崩壊

テレビアニメは大人気となり、大量のプロダクションが生まれ、作品数も飛躍的に増加したがその結果、アニメーターの数が不足した。多くのプロダクションは美術系大学の卒業生などを集めたがそれでも足りなかった。優秀なアニメーターの引き抜きが恒常的に行われるようになり、アニメーターの人件費はみるみる内に高騰した。反面、テレビ局の製作費はそれほどは増えなかった。

それまでほとんどのアニメ制作プロダクションは内製システムを採っていた。キャラクター設定から原画・動画・動画チェック・彩色・撮影など、全ての工程を社内で行うことによって、作品の品質を保てていた。外注は1963年には既に存在したが、恒常的には行われていなかった。しかし、1971年から東映動画は主だった工程のみを自社内で行い、動画・彩色などの比較的単純な工程については外注や出来高払いに移行をし始め、実質的な人員整理を開始した。これに対しては組合側が激しく反発したが、経営側は応じず、1972年、指名解雇が始まる。経営側は組合側の反発にロックアウトを行って応酬した。経営側が強硬だったのは、赤字が嵩み、人件費の削減が行えない限り、会社の存続が困難だったためだと言われている。

一方、虫プロダクションでは1973年に労働争議が起き、解決しないまま倒産した。社長の手塚治虫は虫プロ設立当時「僕は何かあったら労組の先頭に立って一番に会社を糾弾する」と冗談を言っていたことがある。

内製システムを採っていた大手2社でこのような事態になり、同じく内製システムだったタツノコプロも1970年代半ばに賃金問題と社長の死去で、70名から80名の有力な人材が流出して結果的にリストラを行ったことと同じ状態になった。これらの事件を切っ掛けに、ほとんどのプロダクションは多くの作業を外注に頼るようになり、また、以後、アニメーターの給与は極めて低く抑えられるようになった[10]。例えば、虫プロダクション出身者によって設立された日本サンライズは、虫プロダクションを教訓に、制作管理スタッフだけを正社員として発足した。この状況は現在も続いている。1980年代後半以降、動画・彩色という低賃金の工程はほとんどが東アジアで行われるようになり、アニメ制作の空洞化が指摘されている(なお東映動画は海外発注を1973年に開始している)。

コンピュータグラフィックス

コンピュータグラフィックス (CG) の利用は、1960年代から始まり、アメリカでは映画『2001年宇宙の旅』にも参加したジョン・ウィットニー(John Witney)が先駆者として評価され、1961年に『カタログ(Catalog)』を制作。日本でも、1967年11月に第1回草月実験映画祭において、山田学と月尾嘉男によるコンピュータ制御のプロッタで描画したアニメ『風雅の技法』を発表。日本初のCGアニメと目されている。黎明期のCGは表現力の乏しさから抽象的なアートアニメーション、計算に基づいたシミュレーションに用いられた。初期のコンピュータゲームも図形的なデザインによる、リアルタイムで生成されるアニメーションと見ることができる。

商業的な娯楽作品にCGを大々的に用いる切っ掛けとなったのは、1982年ディズニー制作のアメリカ映画『TRON』の登場が大きい。その影響からか、日本でもコンピュータを部分的に用いたアニメが登場するようになる。1983年には映画『ゴルゴ13』とテレビアニメ『子鹿物語』、1984年には映画『SF新世紀レンズマン』『超人ロック』などが制作された。これら1980年代前半の作品は話題性や新奇性による宣伝効果狙いを含んだ、実験的なものであった。

従来のアニメは長い間、紙に描いた線画をセルと呼ばれる透明なシートに転写し、それを手作業で着色した上で、順番に取り替えながら撮影する制作方式だった。これは人海戦術的な方式でありながら技術も必要であり、その放送時間と比較して大変な労力を要した。CGもしばらくは特殊効果としての補助的な使用中心だったが、技術革新となったのは1990年代後半頃からのセルの廃止や3D-CGである。セルの廃止は、原画を従来通り人間が手描きし、それをコンピュータに取り込んで以降の過程をコンピュータ上で処理する。着色はデジタル彩色となり、使用可能な色数はそれまでのアニメ専用絵具(アニメカラー)の80色程度から一気に1600万色となった。3D-CGは原画段階から3Dモデリングを元にコンピュータが作画を行う。基本的に紙への作画はしないので、手書きとは質感が異なるものの、立体物などがリアルに表現できる。これらにより、フィルムでの撮影や編集もコンピューター上での作業に移行することになった。

ディズニーとピクサーは共同で、CGアニメ制作用システム、コンピュータ・アニメイテッド・プロダクション・システム (CAPS) を開発した。CAPSは、1989年の『リトル・マーメイド』で試験的に最後の一部に用いられ、続く1990年に公開された『ビアンカの大冒険』で全面的に採用となった。1991年には『美女と野獣』、1992年には『アラジン』にも用いられ、興行的にも成功を収めた。セルアニメーションで培われた技法と、CG独自のカメラワークや表現を違和感なくを調和させて、1992年にはアカデミー賞の最優秀科学技術賞を獲得した。さらに1995年にはピクサーが制作した3D-CGによる『トイ・ストーリー』が大成功を収める。フルCG映画の登場によりCGの話題性や新奇性は薄れ、CGは単なるアニメ制作の手法の一つとして定着していった。

日本でも1995年に最初の3D-CG連続テレビアニメ『ビット・ザ・キューピッド』が放送開始された。新作アニメはセル非使用前提で開始されるようになり、セルの需要が減少したため、1997年に富士写真フイルムは利益の少ないセルの生産を停止、それを期に東映動画はほぼ全作品でセル非使用に切り替えた。2002年には旧来の長寿アニメの大半もセル非使用に切り替わった。『忍たま乱太郎』が4月放送から、『クレヨンしんちゃん』が5月放送から(例外あり)、『名探偵コナン』が6月放送から、『ドラえもん』が10月放送からなどである。『おじゃる丸』、『ポケットモンスター』、『ちびまる子ちゃん』も同年に切り替わっている。連続作品内での切り替えであるため、セル画との画質の違いに気づいた視聴者も多いはずである。そして2013年には『サザエさん』もセル非使用に切り替わり、セルアニメは実質消滅した。

現在ではトゥーンレンダリングなどの開発により、手書きの質感を3D-CGで表現する試みも進んでいる。それ以外でもコンピュータの利用は進み、ペンタブレットによる作画工程からのデジタル化や、デジタル通信ネットワークの利用による分業(海外などの下請けスタジオまで原画データをデジタル通信で送り、完成したデータもデジタル通信で受けとる)も行われている。

オリジナルビデオアニメ (OVA) の登場

1980年代になり廉価な家庭用ビデオデッキが量産され始めるとOVAが登場した。これは劇場用映画でもなければ、テレビ放送もされないアニメの総称で、主にビデオソフトの形で販売された。最初のOVAは『ダロス』(1983年)で、この後も続々と新作が発売され、現在では日本アニメの柱の1つになっている。OVAは、作品そのものを購入できるような収入を持つ独身男性を主要購買層に定めた作品が多く、それらを対象にしたアニメは自然とOVAで発表されることが増え、結果的に、低年齢層・家族向けにはテレビアニメ、高年齢層向けにはOVAという流通形態に分化することとなった。

その後、高年齢層向けの作品を高年齢層向けの時間帯に放送し、その宣伝効果でビデオソフトやキャラクター商品を売り上げ、制作資金を回収する方法が確立された。これにより、高年齢層向けの作品のテレビアニメも増えてきた。これらの作品は深夜帯や独立UHF局、アニメ専門のケーブルテレビ局で先行放送した直後にビデオソフト化し、話題になっているうちに販売するという販売戦略が採られている。この形態での放送・ソフト化が広まり、現在では狭義のOVAは衰退し、高年齢層向けの作品が加わる形でテレビアニメの対象年齢層が拡大している。


要因としては少子化による玩具の売り上げ低下で玩具メーカーがスポンサーから撤退しゴールデンタイムのテレビアニメ放送が難しくなってきたこと、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の大成功、1997年頃に実用化されたコンピュータ彩色による制作費の低下・制作期間の短縮化、複数の企業が制作費を出し合う製作委員会方式によって制作費の調達が容易になったこと、テレビアニメのビデオソフト化で制作費を賄う仕組みができたこと、そして地上波の深夜放送枠、ケーブルテレビ局、WOWOWノンスクランブル枠、独立UHF放送局CS放送BSデジタル放送といった新たな放送枠が開拓されたことが挙げられている。

国によるアニメ産業育成

1977年から、文化庁は毎年数作品の「こども向けテレビ用優秀映画」を選定し、テレビアニメに製作援助金を交付する制度を開始した。1998年には一般向け作品を含む「文化庁優秀映画作品賞」に統合された。

2004年5月、アニメや漫画など日本のソフト産業の保護・育成に官民一体で取り組む為の「コンテンツ法[11]が参院本会議において全会一致で可決、成立した。

深夜アニメの出現

日本では1990年代後半から深夜帯の青年向けアニメが広まり始めた。1998年頃からおたく向けの需要を見込んだ深夜アニメの採算性が注目されるようになり、テレビアニメの放送形態として一般化していった。この動きには、1990年代に製作委員会方式がアニメでも採用されだしたことが一因であると言われる。 2000年代半ば頃には少子化子供向けアニメの需要が低下する中、アニメファン向けの映像ソフトなどの販売や世界展開などを見込んで製作側が時間帯を買い取るという形での深夜アニメが数多く作られ、アニメバブルとも形容された。その結果、2006年には全日帯のアニメ製作分数と深夜帯のアニメ製作分数がほぼ互角となるほどにまで深夜アニメが広がることとなった。また製作本数の観点では、2006年には深夜帯アニメが全日枠アニメを越えていると分析しているものもある。 放送数には地域によって差が見られ、2012年には独立局で放送の深夜アニメを含めると最多の東京(および、近県のTOKYO MXが視聴可能な地域)では145本が放送されたのに対し、地方を中心に全く放送されなかった地域もある。 しかし、インターネット衛星放送により地方での格差は是正されている傾向にあり、ニコニコ動画BS11では積極的に深夜アニメの放送、配信を行っている。特に魔法少女まどかマギカは地方での地上波放送が無かったにも関わらずネットなどの口コミにより深夜アニメとしては異例の高視聴率、続く劇場版では深夜アニメ映画で初めて興行収入で20億円を突破するなど深夜アニメの大衆化が進んでいる。

OVA

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アニメーション映画

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1953年にテレビ放送が開始されるまで、アニメ作品を鑑賞するには、短編のアニメ映画が添え物として上映されるのを映画館で見るのが主流であり、アニメと言えばアニメ映画以外に存在しなかった。1917年に当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメが人気を呼んだのを受けて、日本で商業アニメが制作されるようになる。その後もディズニーなど輸入されたアニメとの競争にさらされながら、小規模なスタジオで制作されていた。大正末期から昭和初期にかけては人気漫画をアニメ化するなどしたが、映画がトーキー化すると制作費が高騰し、興行主は同じ値段なら見劣りがする日本産より質が高いアメリカのアニメを選ぶようになり、第二次世界大戦前の日本で人気を呼んだアニメはアメリカのアニメだった。

第二次世界大戦が始まるとこうした状況は一変し、アメリカ映画は輸入禁止となり、さらに軍に協力する形で資本が投入され、それまで大量に使えなかったセル画や大量の人材を投入したアニメ映画が制作されるようになる。こうして日本で初めて長編アニメが作られ始め、長編の戦意高揚アニメ『桃太郎の海鷲』(1942年)や、その姉妹編の『桃太郎 海の神兵』(1945年)などが生まれた。中でも『桃太郎 海の神兵』はディズニーの『ファンタジア』の影響もあり、戦前のアニメーション映画における集大成と言われるほど優れた技巧が見られる作品であった。

終戦直後も、細々とながら短編アニメ映画は製作され続けていた。この時代の代表作に『すて猫トラちゃん』(1947年)がある。終戦後の本格長編アニメ映画は、前述した東映動画のカラー映画『白蛇伝』(1958年)に始まるが、1963年に『鉄腕アトム』がテレビ放映されるとその影響はすぐに現れ、長編アニメ映画を制作していた東映動画も同年に『狼少年ケン』でテレビアニメに進出。その後、ノウハウを積み重ねて、それまでフル・アニメーションでアニメ映画を作っていた東映動画がテレビアニメのノウハウを取り入れたB作と呼ばれる『サイボーグ009』を1966年に制作し、この後は、映画の世界でもリミテッドアニメは珍しくなくなった。1960年代は、アニメーション映画はほぼ東映動画と映画『鉄腕アトム』を創った虫プロダクションだけの時代が続いた。ただし、東映動画の長編作品は年に1 - 2本程度、虫プロダクションの制作頻度はそれよりも遅く、当時、莫大な数の邦画が作られていたことから考えると、アニメーション映画はほとんど作られていなかったと言っていい。

1970年代に入ると、他社の参入によりアニメ映画の本数は増加するが、テレビアニメを単に再編集したものが多かった。しかしビデオデッキが全く普及していない時代であり、熱心な愛好者は、テレビの名場面が再び劇場の大スクリーンで見られるというだけで、喜んで劇場まで足を運んだ。比較的有名な再編集アニメ映画には、『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)がある。同作品と翌年公開された『さらば宇宙戦艦ヤマト-愛の戦士たち-』は大成功を収め社会現象となった。この成功でアニメが一般社会に認められることとなり、この後に日本でアニメーション映画が多数作られる切っ掛けにもなった。

1980年代は再編集アニメに加え、『AKIRA』など、新作映画も多く作られた。この他、東映まんがまつりに代表される、テレビアニメでの人気作の新作を映画にし、数本立てで上映する形態が恒常化した。これなどの作品はアニメ愛好者よりは子供を中心とした家族を狙った作品が多い。1990年代から成功を続けている宮崎駿作品の『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などが登場したのもこの時代である。『ドラえもん』の劇場用長編も公開が始まっている。

1990年代のアニメーション映画は、本数は増加したが、高年齢層を狙った作品は少なく、児童・家族向けの作品が多かった。アニメ映画は観客の層が偏り、資本の回収が困難なことが多く、また、高年齢層のアニメ愛好者は劇場に足を運ぶよりは自宅でビデオで繰り返し見るほうを好んだため、製作側が自然とテレビアニメやOVAを重点に置き始めたためだと考えられる。また、テレビアニメの映画化が非常に多いのがこの時代の特徴である。1990年代アニメーション映画はほぼ毎年日本映画興行成績の上位に位置しており、1989年の『魔女の宅急便』を始めとして、1991年は『おもひでぽろぽろ』、1992年は『紅の豚』、1994年は『平成狸合戦ぽんぽこ』、1995年は『耳をすませば』、1997年は『もののけ姫』、1999年は『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』と、以上がその年の日本映画興行成績の最上位を記録している。

2000年代になると、アニメなしでは日本映画は成り立たないとまで言われるほど、アニメ作品の比重が増加した。キネマ旬報によると、2002年度の日本映画の興行収入10位までの内6本がアニメで、1位と2位、4位、5位は全てアニメだった。ただし、2003年度は、アニメの本数は5本に減り、1位はアニメではなかった。またこれらアニメ映画のほとんどは『ポケットモンスター』に代表されるテレビアニメ番組の新作を映画にしたものである。 教育の現場では比較的アニメは多用される。比較的初期の作品に、『カチカチ山の消防隊』(1948年、日本漫画映画社、消防庁)がある。現在では、麻薬防止用の啓発ビデオ『ダメ。ゼッタイ博士のゼミナール』(1995年)や、税金・納税の義務著作権銀行参政権[12]などの啓発・広報ビデオなど、アニメの使用は広がっている。教育映画は実写でのドキュメンタリー作品が中心で、従来、アニメの比率は高くなかったが、近年、割合は増えつつあり、歴史教育映画・番組でも、アニメを使用したものは多い。嘗てアニメは幼児・低学年向けに限られていたが、近年では中学生向け程度まではアニメ作品が創られるようになっている。

海外輸出の歴史

日本アニメの主な輸出先は北米で、金額では過半数を占めると言われる。しかし、日本のアニメは、北米だけではなく、フィリピン韓国などの東・東南アジア地域、南米、当時社会主義国時代だった東欧諸国を含むヨーロッパ、オーストラリアロシアなど、全世界で放映されており、それらの国の映像文化・児童文化に与えた影響は非常に大きい。ただし、放映状況については明確な統計もなく、それぞれの製作プロダクションにもはっきりとした記録が残っていない場合が多い。本小項目内では、主に北米向けの輸出状況について述べ、分かる範囲で他国の状況をも列挙する。

本格的なアニメの輸出は、1963年、アメリカ合衆国で『鉄腕アトム』が放映されたことに始まる。『鉄腕アトム』は現在までに30か国以上で放映された。これを皮切りに、1970年代までにかけて『ジャングル大帝』、『エイトマン』、『マッハGo Go Go』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『宇宙戦艦ヤマト』などがアメリカ合衆国で放映された。また、アメリカ向け専用番組の下請け制作も広く行われた。

これら日本のアニメの進出に対し、明確な拒否反応を示した国もいくつかあった。ほとんどの国での拒否的反応の理由は、古くから日本でも行われた批判と同じで、暴力的であり、性的な表現を含む、というものだった。国によってはそれなどには過敏に反応し、かなり大きな内容の変更が行われた場合もある。ただし、いずれにしても、当時主な視聴者であった子供らからははっきりとした拒絶はされず、ほとんどの国では現在でも同じように日本製アニメが放映されている。

外国で放映されたテレビアニメは、日本製であることを隠すため、スタッフ名が削除されたり、現地風の名前に差し替えられて放映された作品もある。また、内容が現地に合わせて改変されるのは恒常的に行われた。例えば、前述の『科学忍者隊ガッチャマン』では、アメリカ放映の際、戦闘場面が暴力的であるという理由で削除され、関係ないロボットを登場させたり、別ストーリーを構成したりして放映時間を調整した。

また、ある国で受け入れられた作品が他国でも人気になるとは限らなかった。例えば『超電磁マシーンボルテスV』は、日本ではさほど成功しなかったが、フィリピンでは主題歌が軍歌に採用されるほどの大成功を収めた。日本風の生活風景の出るもの(『ドラえもん』)や、特定の国を扱った作品(『ベルサイユのばら』)は、国によって受容されるかどうかが明確に違う。

1980年代になると、アメリカでは日本と同じように、玩具を売るためのアニメの製作が盛んになり、日本のスタジオも下請けの形でこれらの作品製作に加わった。実際にはほとんどを日本で製作した作品が多い。ただし、元となる玩具販売がアメリカ国内限定という事情もあり、これら作品のほとんどは日本では放映されていない。例外として『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』は、アメリカ向けに製作された玩具販促アニメであるが、日本に逆輸入されて放映された。

この時代になると、アメリカの日本アニメの愛好者団体の活動(ファンサブ)が活発化してくる。最古参のファンによればこれらの団体は北米で家庭用ビデオデッキが販売されてすぐ、1976年に活動を始めた。起源については、ロサンゼルスのアジア人向けUHF局が流していたロボットアニメを鑑賞する会から始まったという説がある。当時から、日本製アニメに対してanimeという語が使われていたという。

日本アニメの海外での評価と進出は、1989年12月の『AKIRA』の北米公開を境に大きく変化する。当初ハリウッドではこの映画はあまり注目されず、北米での配給権を買ったのは中小の配給会社だった。しかし、各地の芸術系映画専門館で巡回的に公開する策が功を奏し、観客や批評家に日本のアニメは芸術的なものがあるという印象を与えることに成功した。『AKIRA』は、ヨーロッパでも同様の公開方式を採り、こちらでも同様の印象を与えることに成功した。

1992年から1993年にかけ、『超神伝説うろつき童子』が、イギリス、アメリカで劇場公開された。この作品は成人アニメである。日本では特に評判の高い作品ではなかったが、そのようなアニメ作品に見慣れていなかったヨーロッパ人、アメリカ人には衝撃的な作品であり、おびただしい数の批判が寄せられた。また、一時期、animeはそのような成人アニメの代名詞ともなった。ただし、海外でこの作品と同程度の印象を与えた成人アニメ作品は、この後は出ていない。

1995年以降、日本のアニメシリーズがほぼそのままの形で放映される形態での輸出もされるようになった。ただし、国によっては相変わらず大きな改変がされることも多い。特に、通常のテレビで子供が直接見る時間帯に放映されるものに多い。この時代から輸出されるようになった作品に、『美少女戦士セーラームーン』、『ドラゴンボール』、『遊☆戯☆王』などがある。1996年に『攻殻機動隊』が、アメリカのビルボードでビデオソフト週間売り上げ1位をとったことも、アニメ輸出へ有利に働いた。なおビルボードで日本の映像作品がビデオ販売1位となったのはこれが初めてである。

1999年には新たな転機があった。前年から放映されていた『ポケットモンスター』が全米を初めとして世界各地で大成功を収めた。映画版『ポケットモンスター』と、映画『リング』のハリウッドリメイク版の成功から、日本映画、特にアニメ作品への注目が高まった。これらの作品の成功により、ハリウッドの映画会社の中では、日本映画や日本アニメの専門部署を設け、北米向け輸出や改作が可能な作品がないか検討を始める所も出てきている。この頃、アニメのアメリカへの輸出量は、前年比で3倍まで増えたこともあったが、その後の伸びは鈍化した。

また、中国政府は自国のアニメを発展させるため、ゴールデンタイムの時間帯の外国制作のアニメの放映を禁止し、さらにアニメ放映の約8割以上を自国制作のアニメにする措置を2006年9月から行うと発表した。

年表

1892年

1899年

  • Matches: An Appealイギリス) アーサー・メルボルン・クーパーによる、マッチ棒によるコマ撮りアニメーションを用いた広報映画。世界最初のコマ撮りアニメーション映画。

1900年

1906年

  • 愉快な百面相』(Humorous Phases of Funny Faces、アメリカ) ブラックトンによる黒板の絵を用いたコマ撮りアニメーション映画。

1907年

  • 『幽霊ホテル』(The Haunted Hotel、アメリカ) ブラックトンによるコマ撮り実写映画。実写ではあるが、後のエミール・コール、ウィンザー・マッケイらに影響を与え、その出発点となった。

1908年

  • 8月17日 『ファンタスマゴリー』(Fantasmagorie、フランス)ジムナーズ劇場にて上映。 エミール・コールによる世界最初の純粋な絵画によるアニメーション映画。

1910年代

  • 1911年
    • 4月8日 『リトル・ニモ』(Little Nemo、上映時の正式な題は『ニューヨーク・ヘラルド紙の有名漫画家ウィンザー・マッケイとその動く漫画』Winsor McCay, the Famous Cartoonist of the N.Y. Herald and his Moving Comics、アメリカ)ウィンザー・マッケイによるアニメーション映画。この映画はマッケイの舞台公演の出し物として製作されたが、映画館でも上映された。
  • 1914年
    • 9月14日『恐竜ガーティー』(Gertie the Dinosaur、アメリカ、マッケイ)
  • 1917年
    • 1月『芋川椋三玄関番の巻』(下川凹天) 日本最初の劇場公開されたアニメーションの無声映画(フィルムの存在は確認されていない)。
    • 2月上旬『凸凹新画帳 名案の失敗』(下川凹天)
    • 4月28日『茶目坊新画帳 蚤夫婦仕返しの巻』(下川凹天)
    • 5月20日『猿蟹合戦サルとカニの合戦)』(北山清太郎)
    • 6月30日『塙凹内名刀之巻(初公開時はなまくら刀)』(幸内純一)。劇場公開された上映時間2分の日本の無声アニメ映画。フィルムの存在は未確認だったが、2007年7月、大阪市内の骨董市で小型映写機とフィルムの中に含まれていたのを発見。同時に『浦島太郎』なども発見される。
    • 11月9日『使徒』(El Apostolアルゼンチンキリーノ・クリスティアーニによる一時間の長編アニメーション映画。フィルムは散逸して現存しないが、世界最初の長編無声アニメーション映画であったとされている。

1920年代

  • 1924年
    • 『兎と亀』 完全な形で残る日本アニメとして最古。
    • 煙り草物語』 フィルムが現存しているものとしては日本最古の実写合成アニメーション映画(未公開)。
  • 1927年
    • 『鯨』 全体の一部ではあったが、日本で初めてセル画が使われる。
  • 1929年
    • 『ペルードポリス』(Peludopolis、アルゼンチン、クリスティアーニ)フィルムは現存しないが、世界最初のトーキー長編アニメーション映画であったとされている。

1930年代

  • 1937年
    • 白雪姫』(アメリカ) 現存する世界初のカラーによる長編アニメ映画。
    • MGMがアニメーション部門を設立。

1940年代

  • 1941年
    • 『鉄扇公主』(中華民国)萬籟鳴、萬古蟾監督(双子の兄弟)によるアジアで最初の長編アニメ作品。[13]1942年日本公開(邦題は『西遊記 鉄扇公主の巻』)。上海中聯作品。のち共産党より逃れた萬兄弟は香港に移り若き日の胡金銓 の上司となる。[14]
  • 1945年
    • 桃太郎 海の神兵』 『桃太郎の海鷲』の姉妹作品。戦意高揚であるが、技巧や芸術性では戦前の長編アニメの最高峰とされる。また手塚治虫に大いに影響を与えた。
    • 10月、新日本動画社設立。翌11月、同社を日本漫画映画社に改組。
  • 1947年
    • 『すて猫トラちゃん』 ダイナミックな動きで当時の作画技術の高さを伝える。
  • 1948年
    • 日本動画社(後の東映動画の母体)が、日本漫画映画社から独立して、設立される。

1950年代

  • 1952年
    • フランスのアニメ映画『やぶにらみの暴君』(後、『王と鳥』に改題。原作アンデルセン、監督ポール・グリモー)が公開。日本でも1953年に公開され、文部省などの選定受ける。1980年、『王と鳥』に作り変えられフランスで公開された。日本では2006年にスタジオ・ジブリが公開している。
  • 1958年
    • 10月15日、『もぐらのアバンチュール』が日本テレビにて放映される[2][8]。国産初のテレビアニメであると考えられる。
    • 白蛇伝』 日本最初の劇場用長編カラーアニメ映画。東映動画制作(練馬区)。

1960年代

  • 1961年
    • インスタントヒストリー』(おとぎプロ制作、1961年5月8日~1962年2月24日) 日本初の国産短編(1分間)連続テレビアニメ。ただ、新聞のテレビ欄には読売が毎回載せ、朝日が数回載せた他は、毎日、日経は掲載しなかった。
    • 手塚治虫が、練馬区富士見台に手塚治虫プロダクション動画部設立。
  • 1963年
    • 1月1日『鉄腕アトム』(鉄腕アトム (アニメ第1作))- 世界初の毎週放送の本格的テレビアニメ。テレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢とされている。1966年12月31日まで放送。全193話。一部カラー制作されたが、放送はモノクロ。
    • 3月24日『わんぱく王子の大蛇退治』古事記に基づく東映動画制作の劇場用アニメ映画。大蛇と天早駒にまたがるスサノオの空中戦は300カット、動画1万枚を超える画期的なものであった。また伊福部昭の担当した音楽も評価が高い。
    • 4月7日、『銀河少年隊』(虫プロダクション) NHKとしては、初の国産テレビアニメシリーズ。ただし竹田人形座繰演の人形劇との組み合わせであった。
    • 9月4日、『仙人部落』 フジテレビで放送された世界初の深夜アニメ。
    • 10月20日、『鉄人28号』 世界初の巨大ロボットアニメ。
    • 11月8日、『エイトマン』 テレビ局とスポンサー主体でタイアップ製作された最初のアニメ作品
    • 11月25日、『狼少年ケン』 原作漫画を持たない、日本初のアニメオリジナルストーリーのアニメ。東映動画初のテレビアニメーションでもある。
    • スタジオ・ゼロ設立。
  • 1965年
    • ドルフィン王子』(4月から全3話)、『ジャングル大帝』(10月から全53話)。 日本初のカラーテレビアニメシリーズ。ジャングル大帝は毎週放送の本格的フルカラーテレビアニメシリーズとしては世界初。放送開始時期はドルフィン王子が先行するが、全3話放送だったため、ジャングル大帝が日本でのカラーテレビアニメシリーズの創始とされる。
    • 『宇宙人ピピ』 NHKで放送された日本初の実写合成テレビアニメシリーズ。
    • オバケのQ太郎』 当時のSFヒーローもの全盛の中で、社会現象と言われるほど成功したギャグアニメ。
    • Aプロダクション(現・シンエイ動画)設立。

1970年代

  • 1971年
    • 水木一郎が『原始少年リュウ』の主題歌でアニメソング・デビュー。
    • ルパン三世』放送開始(東京ムービー)。初回放送の視聴率は振るわなかったものの、再放送を重ねるごとに人気が上がり、1977年から第2シリーズの放送が開始され、1978年からアニメ映画シリーズも開始。その後、2000年代以降もたびたび特番が制作されている。
    • 天才バカボン』第1作放送開始(東京ムービー)、国民的ギャグアニメの代表作となる。
  • 1974年
    • カルピス劇場として『アルプスの少女ハイジ』放送。
    • 超合金マジンガーZの大ヒットをきっかけに玩具メーカーがアニメのスポンサーとして力を入れるようになる。
    • ゲッターロボ』放送開始。変形・合体ロボット・アニメの元祖となるが、玩具はアニメのように合体できなかった。
    • 玩具メーカー主導で『グレートマジンガー』放送開始。全39話予定だったのが26話に削られるが、のちの再放送で徐々に人気を上げていくことになる。
    • てんとう虫の歌』放映開始(タツノコプロ)。
  • 1976年
    • キャンディ・キャンディ』が少女向けアニメとして空前の大ヒット。主題歌レコードがミリオン・セラーに。
    • 超電磁ロボ コン・バトラーV』放送開始。玩具メーカーが企画・デザイン段階から参加し、玩具をテレビと同じように変形・合体させられるロボットが誕生。本編の合体シーンも玩具宣伝を兼ねていた。
  • 1977年
    • 8月6日、『宇宙戦艦ヤマト』を再編集したもの(一部のカットは新作)が5館で限定公開。やがて全国ロードショーになり、空前のアニメ・ブームを巻き起こす。主題歌も録音の3年後にしてオリコン1位を記録。
    • ジェッターマルス』 - 『鉄腕アトム』のリメイク版として企画されるも、手塚の状態などから断念。だが、設定や登場人物等はほぼ同じで、主演声優も同じ。中には全く同じ内容のエピソードもあった。
    • 8月、アニメや漫画・劇画がNHKラジオ第1放送等で次々とラジオドラマ化(『宇宙戦艦ヤマト』、『フットボール鷹』、『ゴルゴ13』、『ブラック・ジャック』等)。
    • テレビランド』増刊号として発行された『ロマンアルバム 宇宙戦艦ヤマト』の好評により『ロマンアルバム』がシリーズ化され、翌年の『アニメージュ』創刊に繋がる。
    • ルパン三世 (TV第2シリーズ)』放送開始。角川映画のBGMで一躍有名になった大野雄二が音楽を担当。OPとEDにもインストゥルメンタル曲を使用し、一線を画す。以後、番組のロングランに伴い、同作品のサウンドトラックLPが毎年発売されるようになる(1枚目は1978年1月発売)。
    • 12月、ニッポン放送が『オールナイトニッポン』枠でラジオドラマ版『宇宙戦艦ヤマト』を一挙生放送(上記のラジオドラマとは異なる)。『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』(『宇宙戦艦ヤマト』のBGMをフルオーケストラ用にアレンジしたもの)をバックにオリジナル声優たちが生放送で演技した。
    • 12月、月1話1時間という特異な形式のアニメ『野球狂の詩』が放送される。OPやBGMにスキャットを使用。
    • 『宇宙戦艦ヤマト』劇場版公開以前から数度にわたってヤマト特集を組んでいた月刊『OUT』にアニメ関連のページが次第に増えて行き、結果的にアニメ雑誌の先駆けとなる。
    • 東映アニメーション・ファンクラブ設立。同社の新旧アニメ作品の設定資料や台本の写し等をファンに提供し、イベントを開催してオリジナル・セル画も販売。
    • 声優養成学校誕生。
  • 1978年
    • アニメ関連のイベントがデパート屋上等で次々と開催されるようになる。
    • アニメや漫画・劇画を原作とするラジオドラマに独自の主題歌・挿入歌が付くようになり(『科学忍者隊ガッチャマン』、『火の鳥 鳳凰編』等)、ラジオ版を再編集したドラマ編LPも続々発売(『火の鳥 鳳凰編』、『クイーン・エメラルダス』等)[15]
    • 前年発売の『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』の成功によって次々と旧アニメ・特撮作品のBGMが音盤化(オリジナル・サウンドトラックあるいはオーケストラによる新録音)され、新作においては音盤化を前提としたステレオ録音によるBGM制作が行われるようになる。
    • 宇宙海賊キャプテンハーロック』放送開始。主題歌のカラオケを60人あまりのフルオーケストラで録音。BGM集『交響組曲 宇宙海賊キャプテンハーロック』もオリコンLPチャートで最高9位を達成。
    • NHKとしては初のオリジナル・アニメシリーズ『未来少年コナン』(宮崎駿の初監督作品)が放送開始。
    • 日本アニメーション・ファンクラブ設立。会誌で『未来少年コナン』の設定資料等を配布。
    • 『科学忍者隊ガッチャマン』が再編集され劇場公開。BGMはテレビ版とは異なり、すぎやまこういちが新たに作・編曲、NHK交響楽団が演奏した『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』を使用。すぎやまは続けて、テレビ版続編の『科学忍者隊ガッチャマンII』でも主題歌・挿入歌を担当。
    • 劇場用新作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開、興行収入43億円、配給収入21億円という日本映画史上記録的な大成功を収める。以降、中高生以上を対象とした劇場向け長編アニメが次々と作られるようになる。
    • アニメージュ』(徳間書店)創刊。
  • 1979年
    • 声優による初アルバムがリリース (富山敬)。富山は『ザ☆ウルトラマン』でも挿入歌を歌った。
    • 毎年5月第1週の「マンガ番組」数、この年が(2005年時点で)史上最高の125本(再放送含む、ビデオリサーチ『視聴率年報』より)。
    • 1978年に放映された『銀河鉄道999』が映画化され、配給収入16億円とアニメ作品としては初めて1979年度の邦画年間配給収入第1位を記録する。
    • ドラえもん』がテレビ朝日系列で『放送局、キャスト、制作会社』などが一新され新たに放送開始。当時のアニメ界を大きく進歩させるきっかけとなる。最高視聴率は31.2%。キャストの変更が行われる2005年まで国民に愛され続け現在でも高い人気を誇る。
    • 機動戦士ガンダム』(ガンダムシリーズ)の第1作放送。初回放送の視聴率は振るわなかったが、再放送を重ねるうちに人気が上がり、劇場版が公開されたことで人気爆発。以降、シリーズ化され、30年以上にわたって新作が制作され続けている。
    • ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿の劇場アニメ監督としての処女作)が公開。
    • アニメグランプリが開始。

1980年代

  • 1988年
    • となりのトトロ』、『火垂るの墓』が二本立てで上映される。興行的には不振だったが、ビデオ販売が好調で、国民的映画となる。
    • それいけ!アンパンマン未就学児童に圧倒的な人気を博し、現在まで続く長寿番組に。
    • ビデオ絵本』 当時としては異例の、1本980円の低価格ビデオソフトとして話題になり、年内に累計100万本を売り上げた。
    • 大友克洋監督の劇場作品『AKIRA』公開。製作費に当時としては異例の10億円を投じた大作で、日本のみならずアメリカでも成功し、その後の日本アニメの海外進出の足がかりを作った。
    • OVAシリーズとして『機動警察パトレイバー』が始まり、多くの視聴者を獲得する。この作品の成功により、アニメをビデオのみで売るというOVAの手法が商売として成りたつことが証明されるとともに、それまでまちまちだったOVAの製作・販売形態も1本30分弱・価格は5,000円前後という形に収斂されていくこととなる。

1990年代

2000年代

  • 2000年
    • 鋼鉄天使くるみ』が世界初の8cm DVDシングルアニメとして発売される。
    • 4月26日、『NieA_7』がWOWOWノンスクランブル枠で放送される。放送後はその回が公式サイトで無料配信されるという、日本初のインターネット再放送を行った。
    • 妖怪神社/むじゃら(水木しげる)鳥取県境港市にオープン。
    • はじめの一歩深夜アニメとしては異例の視聴率4.5%(平均)を記録する。
    • 日本国内でBSデジタル放送が放送開始。地上波キー局ほどではないが、次第にBSアニメを含めたテレビアニメ作品が放送されるようになる。
  • 2004年
    • ドリームワークスの劇場作品『シュレック2』(アメリカ)が、前年公開の『ファインディング・ニモ』(アメリカ)を越え、アニメ映画歴代第一位となる興行成績を挙げる(この時点で世界歴代7位、全米歴代3位)。しかし、アカデミー賞は『Mr.インクレディブル』に奪われ、シリーズ2作連続での受賞はならず。
    • テレビ東京の『ケロロ軍曹』が放映。サンライズが制作したテレビアニメとしては最長の話数となった。
    • 日本では、押井守(『イノセンス』)、大友克洋(『スチームボーイ』)、宮崎駿(『ハウルの動く城』)といった、アニメ界の巨匠が相次いで劇場作品を発表したが、『ハウルの動く城』以外は興行的に振るわず、成功を収めた『ハウルの動く城』にしても最終的な興行成績は同監督の前作『千と千尋の神隠し』には届かず、やや肩透かしとなった格好。また、『APPLESEED』は公開前から続篇製作の決定がなされるなど話題が多い年であったが、『アップルシード』シリーズの続篇製作は当時の発表より大幅に遅れている。
    • 練馬アニメーション協議会(前身「アニメミュージアムの会」)が、虫プロや東映アニメーションなど、練馬区内の約50の事業所で設立され、練馬区のアニメ振興を計っている。
    • コナミの『Get Ride! アムドライバー』が放送 玩具やゲームもすぐに発売された。一年放送アニメにしては、豪華な商品展開だった。
  • 2006年
    • ディズニーがピクサーを買収。チーフクリエイティブオフィサーに就任したジョン・ラセターがディズニーの手描きアニメの復活を表明。
    • 地上波初のFlashアニメ『THE FROGMAN SHOW(『秘密結社鷹の爪』、『古墳ギャルのコフィー』)』がテレビ朝日系でアニメ化。
    • ゲド戦記』公開。
    • ブレイブ・ストーリー』公開。
    • 秋葉原UDXに、日本のアニメを内外に発信する情報拠点、東京アニメセンター開設。
    • 練馬アニメーション協議会がフランスのアニメ企業との交流事業で渡仏。
    • 広島アニメーションセンター事業本部、期間限定開催(新同センター建設構想あり)。
    • 京都国際マンガミュージアム京都市にオープン。
    • 時をかける少女』公開、最初東京都内一館のみでの放映だったが、ネット、口コミでの話題を集め、全国でのロングラン興行となった。
    • 四谷怪談』(原作鶴屋南北)、『天守閣物語』(原作泉鏡花)などが、従来のアニメ制作者の枠を越え「怪 ~ayakashi~ 製作委員会」という、ドラマやバラエティのプロデューサーらとのコラボチームで制作されフジテレビ系にて深夜に放送される。
  • 2008年
    • ディズニーが6年ぶりに手描きアニメを復活させた『プリンセスと魔法のキス』を公開。
    • ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ放映40周年を記念し、『墓場鬼太郎』放映開始。
    • 河童のクゥと夏休み』が、アニメ作品では『千と千尋の神隠し』以来6年ぶり、ジブリ作品以外では初となるキネマ旬報ベスト・テンに選出。
    • ゴルゴ13』が放映。1話完結型深夜アニメとしては話数が最も多く、レギュラーキャラクターの数が最も少ないアニメ作品となった。
    • パッタポッタモン太』(東京キッズ制作、練馬区)。アメリカの映画制作会社の力添えもあり、世界のテレビ局への売り込みが成功し、2008年2月にベルギーでの放送が決まった他、スペインイタリアブラジルで話が進んでいる。
    • 3月16日『ねりたんアニメプロジェクトin大泉』(旧練馬アニメーションフェスティバルin大泉)開催。松本零士が大泉学園駅の1日駅長就任。銀河鉄道999のキャラクタ車掌像を同駅に設置。
    • 3月27日『東京国際アニメフェア2008』東京国際展示場で開催。特別企画として、宝塚市立手塚治虫記念館や三鷹の森ジブリ美術館など、全国43の漫画・アニメミュージアムの原画や絵コンテなどを展示。カナダ大使館、韓国文化コンテンツ振興院、米国企業、UAEからも参加。手塚治虫生誕80年、石ノ森章太郎生誕70年記念特別展示も。
    • 4月24日 『なまくら刀』(幸内純一)の復元・上映。東京国立近代美術館フィルムセンターは、日本で劇場公開されたアニメ映画としては現存するものでは最古とされる『なまくら刀』のフィルムをデジタル技術で復元。同時に発見された「浦島太郎」などとともに『発掘された映画たち2008』で一般公開。
    • 6月 加藤久仁生監督の「つみきのいえ」がアニメ界最高の権威、アヌシー国際アニメ映画祭で、クリスタル賞(グランプリ)、短編部門若手審査員賞を併せて受賞。その他同作品は2008年中に、第12回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞や、イタリアのミラノ映画祭2008のフォーカス・オン・アニメーション・アワードなど、国内外12の映画祭で19の賞を獲得した[18]
    • 崖の上のポニョ』、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』が公開。
    • 劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール ギラティナと氷空の花束 シェイミ』が公開。前売り券が238万4198枚を売り上げて、ギネス・ワールド・レコーズから「最も前売り券が売れたアニメ映画」として世界記録の認定を受けている。
    • リロ&スティッチ』の後日談となる『スティッチ!』が放映。制作を三度繰り返した(テレビ東京系→テレビ朝日系)。

2010年代

関連項目

参考文献

  • 山口且訓、渡辺泰『日本アニメーション映画史』(1977年、有文社)
  • 伴野孝司、望月信夫『世界アニメーション映画史』(1986年、ぱるぷ)
  • 山本暎一虫プロ興亡記』(1989年、新潮社
  • 大下英治『手塚治虫 ロマン大宇宙』(1995年、潮出版社、のち講談社文庫
  • 草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』(2000年、徳間書店
  • 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』(2001年、徳間書店)
  • 津堅信之『日本アニメーションの力』(2004年、NTT出版
  • 津堅信之『アニメーション学入門』(2005年、平凡社新書
  • 山崎敬之『テレビアニメ魂』(2005年、講談社現代新書
  • 津堅信之『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』(2007年、臨川書店)

脚注

  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. 「WEBアニメスタイル」の白川大作(元東映動画専務)のインタビュー[1]を参照。
  5. 5.0 5.1 『アニメ大国の肖像』(中日新聞連載、2006年)
  6. ただし、須藤ら虫プロ関係者に対して独自に取材を行った津堅信之は、虫プロの本命はあくまで『アトム』で『0マン』は『アトム』を通すための比較用に持ち出されたのではないかと推論している(津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年、98-100ページ )。
  7. リスト制作委員会編「ANIMEはじめてコラム24 日本初のカラーTVアニメ」『アニメポケットデータ2000』徳間書店、2000年、p58
  8. 8.0 8.1 テンプレート:Cite web
  9. 『動画王』vol.7 キネマ旬報社、1998年、68頁
  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite web
    テンプレート:Cite web
  13. 出典は『キネマと砲声―日中映画前史』佐藤忠男
  14. 出典は『キン・フー武侠電影作法 The Touch Of King Hu』山田宏一と宇田川幸洋の共著
  15. ラジオ版の主演者田島令子はこれがハマリ役となり、後に劇場版『銀河鉄道999』等でも同じ役を演じることになった。
  16. テンプレート:Cite book
  17. 「宅急便」という単語が同社による登録商標であるため。詳細は同項を参照。
  18. その他2008年に受賞した主な映画賞・第8回飛騨国際メルヘンアニメ映像祭(第7回メルヘンアニメコンテスト)2008.11.30-12.13最優秀作品賞受賞,子どもメルヘン賞受賞[2] ・CINANIMA 2008 32nd International Animated Festival of Espinho (ポルトガル) 2008.11.10-15 Grand Prize Cinanima 2008受賞,Prize Rtp2受賞,Prize Alves Costa受賞,[3] ・ANIMANIMA INTERNATIONAL ANIMATION FESTIVAL(セルビア)2008.9.10-13 Golden peg bar受賞,Special Distinction of the Jury for the Best Directing受賞[4] ・Concorto 2008(イタリア)2008.8.27-31 Winner of Golden Donkey 2008受賞,Best Animation受賞[5] ・第12回LA SHORT FEST(アメリカ)2008.8.15-21 Best Animation受賞[6] ・Anima Mundi International Animation Festival of Brazil(ブラジル)2008.7.11-20,27,The Best Script受賞[7] ・"Message To Man" International Documentary, Short and Animated Films Festival(ロシア)2008.6.15-22,The Best Animation Film受賞[8] ・Annecy International Animation Festival(フランス)2008.6.9-14,The Annecy Cristal受賞,Junior Jury Award for a short film受賞[9] ・ANIMABASAURI International Animated Film Festival(スペイン)2008.5.7-13,Best Short Film in Karratu Section受賞[10]
  19. テンプレート:Cite web
  20. 但し、関連規制条例を制定した前者の実質的な当事者・東京都は不参加

参考DVD

  • 『日本アートアニメーション映画選集』(紀伊國屋書店)第二次世界大戦前から戦後の短編116本を集めた。DVD12枚組 発売当時定価36万円

外部リンク