アドルフ・ティエール

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:政治家 ルイ・アドルフ・ティエールテンプレート:Lang-fr1797年4月16日 - 1877年9月3日)は、フランスの政治家・歴史家。首相を2回(在任:1836年2月22日 - 9月6日、1840年3月1日 - 10月29日)務め、フランスの2代大統領(第三共和政の初代大統領)(在任:1871年2月17日 - 1873年5月24日)を務めた。

ブック=ベル=エール出身。大学卒業後に弁護士となった。その後、パリに出て自由主義に傾倒し、1814年王政復古で成立していたブルボン朝の独裁的な政治を批判し、『フランス革命史』を著わして、一躍国民から名声を得た。1830年七月革命シャルル10世が追放されてブルボン朝が滅亡した後、オルレアン家ルイ・フィリップを国王に擁立して(七月王政)自身は財務次官、内相、そして首相となって活躍した。しかし、同じくルイ・フィリップのもとで首相として活躍したフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーとは対立し、これが後に七月王政が倒れる一因を成した。

1848年二月革命でオルレアン朝が滅んだ後、フランスの秩序回復を目的としてルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)を支持した。彼のもとでも政治家として活躍したが、まもなく対立して1851年のナポレオン3世のテンプレート:仮リンクでフランスから追放されてしまった。1852年、ナポレオン3世から帰国を許されたために帰国した。帰国後はナポレオン3世から自身の補佐役として何度も招きを受けたが、ティエールはこれを拒絶して政界からの引退を表明し、史書の著作に専念するようになった。1869年から政界に復帰し、翌年2月の普仏戦争の最中にボルドー国民議会から行政長官に任じられた。そして普仏戦争でナポレオン3世がプロイセン王国に敗れて退位を余儀なくされた後、新たに成立した国防政府の代表となり、プロイセンとの徹底抗戦を主張する一方でプロイセンの首相・ビスマルクとの和平工作に尽力し、アルザスロレーヌの2州をドイツに割譲することで和睦を結んだ。

その後、第三共和政期の初代大統領に選ばれたが、アルザスとロレーヌを割譲したことに怒ったパリの市民によりパリ・コミューンが創設され、一時的に政府をヴェルサイユに移してこれと戦い、勝利した。この戦いで、セーヌ川は赤く染まったと言われている。そしてティエールは大統領として、戦争で荒廃したフランスの復興を目指したが、政府内で王党派と急進的共和派の対立があって彼自身は政治を行なえず、1873年の国民議会の議決により、大統領辞任を余儀なくされてしまった。1877年、81歳で没した。

ティエールは激動するフランスを生き抜いた政治家として評価されているが、どちらかというと歴史家としての評価の方が高い。代表的な著作として『執政政府第一帝政の歴史』がある。

外部リンク

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先代:
ルイ=ナポレオン・ボナパルト
第二共和政第二帝政
フランス共和国大統領
第三共和政
1871年 - 1873年
次代:
パトリス・ド・マクマオン

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