いわき湯本温泉

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テンプレート:日本の温泉地 いわき湯本温泉(いわきゆもとおんせん)は、福島県いわき市(旧国陸奥国明治以降は磐城国)にある温泉。かつては常磐湯本温泉と呼ばれていた。また、湯本の地名は平安時代に遡る。

尚、「湯本温泉」は全国に複数存在する。詳細は湯本温泉を参照されたい。

アクセス

泉質

  • 含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉

毎分5,000Lの湧出量がある。

現在は、かつてこの地にあった常磐炭田の坑底をボーリングして温泉を汲み上げている。

月岡温泉磐梯熱海温泉とともに「磐越三美人湯」に数えられている。

温泉街

駅前から山側に、温泉通り沿いに温泉街が広がる。

共同浴場は3軒存在する。その中の「さはこの湯」は日帰り入浴施設に近い感じである。

温泉街の西側には巨大温泉リゾート施設「スパリゾートハワイアンズ」が存在する。また同じく温泉街西側にある日本中央競馬会競走馬総合研究所常磐支所には馬用の温泉入浴施設があり、しばしばTVなどでその光景が放映される。

歴史

開湯の歴史は古く、奈良時代であるとされ、古くはこの地を「佐波古」と呼んだ。伝承によると、傷を負った一羽の丹頂鶴がこの地の泉に降り立ち、湯浴みをしている所、可哀相に思った若夫婦の旅人が傷口を丹念に洗い流したところ、そのツルは元気に飛び立ち、そして数日後ツルが化けた貴女が現れ、巻物を2人に授けた。そこにはこの御湯を開き、天寿を全うせよとあり、以来そこに「佐波古」の湯が開かれたとされる。

延長五年の延喜式神名帳にはこの湯に鎮座する磐城郡温泉(ゆの)神社の名前が撰上されるようになり、それに因みいつしか「日本三古泉」という言葉を宣伝文句に用いるようになった。(因みに日本書紀に記載された「日本三古湯」が採り上げられる場合は前述の有馬、道後と並び『牟婁の湯』、すなわち白浜温泉が該当する)。また、平安の時代には既に「湯本」という地名が用いられており、磐城郡の湯本温泉として知られるようになった。

また、鎌倉時代には、「三箱の湯」として、信濃御湯名取御湯ともに三御湯に数えられている(いわき湯本の代わりに犬養御湯が入る場合もある)。

以上の宣伝も兼ねた経緯で神聖な湯として名を馳せ、その効能も旅人などに知られるようになり、湯治の名所として発展を遂げるようになった。江戸時代には陸前浜街道宿場としても栄えた。

明治時代に入って石炭採掘がはじまると、坑内から温泉が多く出水した。このことは地底の泉脈が破壊されたことを意味し、1919年に温泉の地表への湧出は止まってしまった。その後炭鉱側との協議により温泉が復活することができたのは1942年である。

石炭産業が斜陽化すると、常磐炭礦(現・常磐興産)会社は石炭産業から観光産業への脱却を図った。1966年には常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)をオープンする。当時は珍しかった温泉プールやレジャー施設、その中でもフラダンスショーを目玉にした狙いは見事成功し、常磐湯本温泉(現・いわき湯本温泉)の名を一気に高めた。センター従業員、ダンサー、バンドメンバーには、炭鉱従業員とその家族を採用するなど、失業した炭鉱従業員・家族に雇用の場を与え、生活支援をするという側面もあった。また、現在各地にある温泉テーマパークの先駆的役割も果たしている。 オイルショックの当時は館内の気温を調整する石油価格高騰により、充分な室温を保てず「常磐アラスカセンター」などと揶揄された事もあるが、その後見事に復活して今日を迎えている。

この炭鉱から観光へのストーリーは「フラガール」という題名で映画化された。

但し、炭鉱が操業している間は湯量が十分ではなく。現在のように大量の湯を確保可能になったのは、1976年の炭鉱閉山後に炭鉱跡で源泉ボーリングを行ってからである。また、この時に「常磐湯本温泉」から「いわき湯本温泉」に名前を変えた。 鉱山開発で枯渇したことのある温泉は、他にも湯ノ口温泉などがある。

日本各地に存在する「湯本温泉」とともに「ゆもと湯けむり5名湯」という宿泊スタンプラリーを定期的に開催している。参加している温泉地はいわき湯本温泉の他に、ニセコ湯本温泉、岩手湯本温泉(湯田温泉峡湯本温泉)、岩瀬湯本温泉長門湯本温泉である。

2008年1月には、別府温泉で行われているオンパクを導入し、「いわきフラオンパク」というイベントを開催している。オンパクの開催は日本で4番目である。

外部リンク

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