ラプラタ沖海戦
ラプラタ沖海戦(ラプラタおきかいせん)は第二次世界大戦中の1939年12月13日にラプラタ川河口の沖合いで生起した海戦。開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたドイツのドイッチュラント級装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーがイギリスの巡洋艦3隻と交戦した。戦闘後、損傷を受けたアドミラル・グラーフ・シュペーは中立国ウルグアイ のモンテビデオ港に入港し、17日港外で自沈した。
背景
ドイツ海軍の戦力はイギリス海軍に対して劣っていたため、第二次世界大戦では通商破壊を基本戦略とした。ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー(艦長ハンス・ラングスドルフ大佐)は第二次世界大戦開戦前の1939年8月21日に、同型艦のドイッチュラントはその3日後に、それぞれドイツ・ヴィルヘルムスハーフェンを出港した。9月3日の開戦時にはアドミラル・グラーフ・シュペーはアゾレス諸島南方沖に、ドイッチュラントはグリーンランド沖にあった。
通商破壊戦は9月24日に許可された。アドミラル・グラーフ・シュペーは9月30日にペルナンブコ沖でイギリス商船クレメントを撃沈したのを最初に、10月5日にセントヘレナ島北でニュートン・ビーチを捕獲(9日撃沈)、7日にアシュリーを撃沈、10日にハンツマンを拿捕した(17日撃沈)。10月14日に補給艦「アルトマルク」と合流し、16日に補給を受けた。
いっぽうのドイッチュラントも通商破壊戦を行った。10月5日にバミューダ諸島沖でストーンゲートを、14日にニューファンドランド島沖でローレンツ・W・ハンセンをそれぞれ撃沈したが、機関の不調もあって11月15日にドイツに帰投した。
アドミラル・グラーフ・シュペーは10月22日にトレバニオンを撃沈した。その後インド洋へ向かい、11月15日にマダガスカル島南でアフリカ・シェルを撃沈した。再度大西洋に向かい、その途中の11月16日にアルトマルクから補給を受けた。12月2日にはドリク・スターを、同月3日にはタイロアをそれぞれ撃沈した。12月6日にアルトマルクから補給を受け、同月7日にストレオンシャルーを撃沈した後、ラプラタ川河口へ向かった。ちなみに沈められた船の乗員はアドミラル・グラーフ・シュペーに救助された。
対するイギリス軍は大西洋からインド洋にかけて5つの部隊(その後、9つに増強)を配備し、ドイツ軍の通商破壊艦を捜索していた。12月2日に撃沈されたドリク・スターや10月22日に撃沈されたトレバニオンはアドミラル・グラーフ・シュペーの位置を打電しており(「ハンツマン」も救難信号を発信したが誰にも受信されなかった)、その情報を得たイギリス海軍G部隊(重巡洋艦エクゼター、重巡洋艦カンバーランド、軽巡洋艦エイジャックス(旗艦)、アキリーズ)のH・ハーウッド准将はアドミラル・グラーフ・シュペーがラプラタ川河口へ向かうと予測した。12日、エクゼター、エイジャックス、アキリーズはラプラタ川河口沖に集結した。なお、この時点ではカンバーランドはフォークランド諸島で整備中であった。
ハーウッド准将はアドミラル・グラーフ・シュペーにとって最悪の相手であった。海軍大学校で教鞭をとっていた事もあるエリート軍人で、装甲艦の研究も行っていた。彼は個々の艦ではアドミラル・グラーフ・シュペーに勝てないと考えていたため、艦隊を1度集結させた後、二手に分けて挟撃する作戦を立てていた[1]。
戦闘経過
12月13日5時52分(現地時間、以下同じ)、アドミラル・グラーフ・シュペーは右舷前方約31,000mに敵艦のマストを発見した。最初は敵艦隊を軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻と誤認し、これらを船団護衛部隊と考え接近したが、6時10分、それらが重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻であると確認した。いっぽう「エイジャックス」は6時9分に煙を発見しエクゼターを分派、6時14分にエクゼターはそれがアドミラル・グラーフ・シュペーであると確認した。
6時17分、アドミラル・グラーフ・シュペーは、本国からの敵戦艦との交戦禁止命令を破り、距離17,000mで軽巡2隻に対し砲撃を開始した。それに対してイギリス艦隊も順次砲撃を開始した(エクゼターは6時20分、アキリーズは6時21分、エイジャックスは6時23分)。
ラングスドルフはかつて魚雷艇隊を率いていた事があり、その影響を受けて彼の指揮するアドミラル・グラーフ・シュペーはまるで駆逐艦のような戦い方をしていた。つまり、火力よりも機動力を活かした回避行動の連続により攻撃をかわそうとしたのであるが、相手が機動力に勝る巡洋艦では効果は無く、次々と被弾して防御の弱さを露呈したばかりか、その火力も活かす事ができなかった[2]。
またこの時、アドミラル・グラーフ・シュペーの被弾した高角砲の1つでは砲手が被弾時の熱で蒸発してしまい、肉片すら見つからなかった[3]。
6時25分、アドミラル・グラーフ・シュペーはエクゼターに砲撃を集中させ、これによりエクゼターは大きな損害を受けた。エクゼターはY砲塔を残して主砲は沈黙しながらも、戦闘を継続した。6時32分、エクゼターは魚雷2発を発射したが命中しなかった。
6時36分、アドミラル・グラーフ・シュペーは煙幕をはり、北西へ転進。イギリス軽巡洋艦2隻もこれを追撃した。6時38分、エクゼターはさらに2発の命中弾を受けた。浸水によって電源が落ちたため、戦闘不能となり、7時30分にハーウッド准将はエクゼターに後退を命じた[4]。
その後、アドミラル・グラーフ・シュペーは残る2隻の軽巡洋艦に砲火を集中させようとしたが、逆に猛攻撃を受けて甚大な被害を被ってしまった。[5]
7時16分にアドミラル・グラーフ・シュペーは戦場を離脱し、ラプラタ川へ向かった。しかし、これがハーウッド准将にはアドミラル・グラーフ・シュペーがエクゼターに止めを刺すかのように見えたため接敵を命じた。7時25分、エイジャックスは命中弾をうけ砲塔2基が損傷した。7時40頃、エイジャックス、アキリーズは追撃を中止し、夜戦を試みるため煙幕を張り東へ反転したが、アドミラル・グラーフ・シュペーの針路が南西へ変わったため、二手に分かれて追撃を再開した。軽巡洋艦2隻がアドミラル・グラーフ・シュペーの25km後方から追跡した。エクゼターはフォークランド諸島へ向けて撤退した[4]。
モンテビデオ港
14日0時50分、アドミラル・グラーフ・シュペーはウルグアイの首都モンテビデオに入港した。ウルグアイは中立国(ただし英国の強い影響下)であり、国際法では中立国の港に停泊できるのは24時間以内となっていた。しかし、損傷のため出港できないときはその国の同意があれば修理期間中の停泊は可能ともなっていた。ラングスドルフは機関部の修理に最低でも一週間は確保したがっていたが、ドイツがウルグアイと交渉し出すよりも前に、ウルグアイにはイギリス駐在大使からの圧力がかかっており、ドイツ駐在大使の交渉も実らず、アドミラル・グラーフ・シュペーは72時間しか停泊が認められなかった[6]。イギリス軍は2隻の軽巡洋艦でラプラタ川河口の封鎖を行い、カンバーランドをフォークランド諸島から呼び寄せ、さらに空母アーク・ロイヤル、巡洋戦艦レナウンを含む有力なイギリス艦隊が集結中であるという偽の情報を流した[4]。
シュペーの自沈の理由については謎が多いが、戦後の証言ではアドミラル・グラーフ・シュペーはラプラタ沖海戦で燃料系統に損傷を受け、燃料をタンクから機関へ送れない状態になっており、修理には時間がかかり即座には長時間の航行が不能の状態にあったという。また、アドミラル・グラーフ・シュペーの見張りは港外にレナウンを発見したとラングスドルフに報告した。これは誤認だったが、ラングスドルフは現在の艦の状態では脱出が困難であり、艦を拿捕されることは本国より厳禁されており、艦の処分は自沈も含めて一任されていたことから、自沈を決断したと推察されている。乗員のうち戦闘員約700名は油槽船タコマに移り、退去期限の12月17日18時にアドミラル・グラーフ・シュペーはモンテビデオ港を出港した。19時28分、艦内に設置された爆薬が爆発し、アドミラル・グラーフ・シュペーは擱座した。脱出したラングスドルフ以下約150名は中立国(ただし親独)アルゼンチンのインデペンデンシア級海防戦艦「リベルタッド(Libertad) に救助された。また、タコマはウルグアイの練習巡洋艦ウルグアイに抑留された。なお、このとき港外にいたのは重巡洋艦1隻と損傷した軽巡洋艦2隻のみであった。アーク・ロイヤル、レナウンがモンテビデオに向かっていたのは事実であるがこの時点ではまだはるか遠くにいた。
自沈から2日後の12月19日、ラングスドルフ艦長はブエノスアイレスで、ハーケンクロイツ旗ではなく、爆破前にアドミラル・グラーフ・シュペーから回収していたドイツ帝国海軍旗を体に巻きつけ拳銃で自決した。
なお、ヒトラーはこの海戦の結末をおりにふれて「戦い抜くことをせず自沈した」「戦艦への期待は幻滅以外のなにものでもなかった」と非難している[7]。
その後
エイジャックスとエクゼターの乗組員は海戦の翌々月の1940年2月23日の金曜日にロンドンに凱旋帰国し、叙勲式に臨み、市庁舎であるギルドホールでの市長主催昼食会に招待された。エリザベス王妃とジョージ6世は多数の乗組員と握手し、健闘を称えた。出席していたチャーチル首相は開戦後初めてイギリス勝利に涙を流したとアキリーズの乗組員であった弟を亡くした式典出席者の一人は伝えている。
アドミラル・グラーフ・シュペーと交戦した3隻の巡洋艦のうちエクゼターは1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で日本海軍によって撃沈された。
2004年2月、アドミラル・グラーフ・シュペーの残骸の引き揚げ作業が開始された。2007年に完了予定であったが、2009年、大統領令により、引き揚げ作業は中止された。
脚注
参考文献
- Dudley Pope : 『ラプラタ沖海戦:グラフ・シュペー号の最期』、内藤 一郎訳、早川書房、1978年、ISBN 4-15-050031-2
- R.K.Lochner : 『エムデンの戦い』、難波 清史訳、朝日ソノラマ、1994年、ISBN 4-257-17260-6
- Colin Townsend / Eileen Townsend 『スミス婦人たちの戦争:第二次世界大戦下のイギリス女性』近代文藝社、1993年、ISBN 4-7733-1733-7