明帝 (東晋)
テンプレート:基礎情報 中国君主 明帝(めいてい)は、東晋の第2代皇帝。王敦の乱を平定して皇帝権力を確立したが、早世した。
生涯
元康9年(299年)、琅邪王であった司馬睿の長男として誕生する。生母は代郡出身の荀氏(側室)であり、漢化した鮮卑族の娘とも伝わる。幼い頃から頭脳明敏で父に愛された。建武元年(317年)、父が晋王となるとその世子となり、大興元年(318年)に父が皇帝になると皇太子となる。
永昌元年(322年)に王敦が反乱を起こし、官軍が大敗した際には、自ら出陣しようとしたが、側近の温嶠(魏の温恢の末裔)が「殿下は国の世継ぎ。御身を軽んじてはいけません」という諫言により抑えられた。勇猛果敢かつ剛毅であった司馬紹は王敦に忌避され、また、元帝が末子の会稽王・司馬昱を溺愛したこともあり、太子の地位が微妙となったことがあった。しかし、信頼する温嶠の弁舌により救われて廃嫡は免れた。
間もなく元帝が崩御したため即位する。やがて王敦が丞相・楊州牧を称して再び反乱を起こすと、その軍を破って反乱を鎮圧する。しかし、王敦は太寧2年(324年)に既に病死していたため、果敢な明帝はその棺を暴いてその屍に刑を加えたという。
明帝は皇帝権力の安定化のために王導を重用して、江南の貴族とも融和的な政策を採った。明帝は東晋随一の名君だったが、28歳の若さで崩御した。もし、明帝が長命だった場合は東晋の命は延びていたかもしれないと評価されている。明帝は王導から曾祖伯父の司馬昭らによる簒奪の経緯を知り、顔を覆って「どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという[1][2]。
俗説では、明帝は呉の大帝孫権と同じように碧眼で紫髪で黄髭だったという。 司馬紹の容貌を見た王敦が「太子は鮮卑奴(鮮卑族を侮辱した言葉)なり」と評していたという[3]。
宗室
后妃
子
脚注
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