名鉄キハ8000系気動車

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テンプレート:ブルーリボン賞 (鉄道) 名鉄キハ8000系気動車(めいてつきは8000けいきどうしゃ)とは名古屋鉄道(名鉄)にかつて在籍した優等列車用気動車の一群を指す総称である。

日本国有鉄道(国鉄)高山本線への直通列車運転を目的に、日本車輌製造で1965年と1969年の2回に亘り、6両ずつ合計12両が製造された。当初は準急列車に用いられ、その後急行列車、さらには国鉄ばかりか富山地方鉄道特急列車にまで充当されるという希有な経歴を持つ[1]

第9回(1966年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞車。

直通運転の背景

テンプレート:See also 名古屋鉄道は名岐鉄道時代の1932年10月から週末に、自社犬山線と国鉄(当時の運営母体は鉄道省)高山本線経由で名古屋市内の柳橋駅名古屋駅近くの名鉄ターミナル駅1941年廃止)から下呂駅への直通列車を運行していた。当時はトイレ取付・畳敷化などの改装を施した名鉄電車(モ750形)を高山本線内で国鉄蒸気機関車に牽引させることで、直通運転を実現していた。両線が近接している鵜沼駅連絡線を設けて直通させている。

この背景には、名古屋駅 - 鵜沼駅間では岐阜駅経由の東海道本線・高山本線ルートより犬山線を経由する方が短距離という事情と、名鉄のターミナルであった柳橋駅は当時の名古屋市の中心街に位置していたこともあって、旅客誘致策の一環として名鉄が鉄道省に申し入れた。鉄道省側は当初、一私鉄の車両を省線で運行するには保安上問題があるとして拒んでいたが、昭和天皇が犬山行幸の折に名鉄を利用していたこと、また、鉄道省も当時は観光客の誘致に力を入れていたこともあり、名鉄車両の省線乗入れを受け入れたものである。

名鉄ではこの乗入れ列車のために、当時の最新鋭車であるモ750形2両の半室を畳敷に改造した「お座敷電車」を用意し、「下呂行き特急」として大々的に宣伝した。下呂への往路は土曜日の昼過ぎに柳橋を出発し、復路は日曜日の夕方に柳橋へ到着するダイヤが設定され、週末の1泊旅行に適したものとなった。

その後1940年10月の戦時ダイヤ改正からは国鉄の木造客車を名鉄線内で電車牽引する逆乗入れの形態となった(運用上は、この方が鉄道省の取扱が楽になる)。直通運転は太平洋戦争中に戦況の激化に伴って休止されたが、時期は不明(1944年改正時の時刻表には乗入れ列車の記述あり)となっている。

戦後1960年代の国内観光ブームを背景にこの直通運転再開が目論まれた。名鉄側は以前から運転再開を希望していたが、実現の契機となったのは従来名鉄築港線によって担われてきた東名古屋港駅からの貨車輸送が1965年に開業した第三セクター鉄道名古屋臨海鉄道に立替えられた事情があった。名古屋臨海鉄道には国鉄も資本参加しており、高山本線直通運転再開は築港線貨物輸送の補償という意味合いがあったようである。

すでに高山本線では1958年以降、気動車による準急列車が運行されて好成績を収めており、名鉄直通列車についても気動車が用いられることになった。この列車もまた準急列車としての設定が計画された。

名古屋鉄道(と同社に合併されたいくつかの鉄道会社)は戦前こそ支線用のガソリンカーを保有していたがそれらは戦中戦後に全て電車付随車に改造され、戦後長らく気動車の保有はなかった。だが、狭小な建築限界の名鉄線には幅広な国鉄形気動車が直通できないこと、また国鉄車両よりも水準の高いサービスが目論まれたこともあり、新たに専用の気動車を開発することになった。

仕様・構造

走行機器

開発コストを抑制し、また国鉄線内では国鉄乗務員が運転するという事情から、運転台と走行性能については1961年から量産されていた国鉄の急行形気動車キハ58系に準じたものとなった。最高速度は95km/hである。

テンプレート:Soundエンジンはキハ58形と同一仕様のDMH17H形(180PS/1,500rpm)を搭載、台車も同様の国鉄標準形である金属バネ台車のDT22C形・TR51B形が用いられた。変速機や逆転機の減速比もキハ58系(ひいては一般形気動車)に等しい2.976である[2]。ブレーキも国鉄形気動車同様の自動空気ブレーキDAE-1形だが、高山本線での連続勾配を考慮し、キハ58系に中途から採用されていた機関ブレーキ機構(エンジンブレーキの制御回路)を当初から併設している。

名鉄線内の車両限界(建築限界)に対応するため車体寸法が縮小され、床下の艤装空間が不足することから、放熱器は車端部の床上に置かれた。室内配置では自然通風による放熱が困難であるため、屋根上のファンで車体側面から吸気し、屋根上に排熱する強制通風式である。これは国鉄キハ81形・キハ82形気動車発電セット用冷却系と同様であるが、小断面車体で屋根高さも低い本系列では、通路の天井高さを確保するため、小径ファンを左右に振り分けて装備する。車体端部には冷却風の吸気口を配する。

保安装置はATSを装備し、M式ATS(名鉄式自動列車停止装置)と国鉄仕様のATS-S形の二重装備としている。

車体

国鉄気動車を基準とした走行機器とは異なり、車体の内外装は独特の意匠をもつ。

名古屋鉄道は1959年普通列車に用いられる車両としては日本初の「大衆冷房電車」5500系電車を送り出し、1961年には前面展望構造を備えた冷房付車7000系電車パノラマカー」を開発していた。この先例との兼ね合いもあり、名鉄は直通準急用気動車についても冷房の搭載を決定した。冷房装置は名鉄で初採用のいわゆるポンプレス型で、屋上カバーは排気扇と一体化した連続形に、室内は平ら天井となった。キハ58系の設計に準ずるため、客室床面と窓(850mm)が共に名鉄の電車に比べて高く、側面はやや腰高に見える。側窓についてはパノラマカー同様のヒドゥンピラーを用いた広い固定式連続窓(天地寸法 75 cm)として眺望を確保し、二等座席もパノラマカーと同様の転換クロスシートとした。座席のモケットは登場時灰緑色で特急昇格時に赤色へ、1980年代には7000系白帯車と同じ2色へと変化している。また私鉄としては異例な一等車も製造され、こちらは国鉄優等車両の一等車と同等のリクライニングシートを採用した。長距離運用のためデッキ付としトイレも設置されている。客室化粧版は7000系と異なり薄茶色の木目柄が採用され、少し上級なイメージであった。なお屋根高さが3,450mm、床面高さ1,250mmであったことから客室天井高さは国鉄特急車と同様に低かった[3]

運転台は正面貫通式の高運転台構造で、窓上両側にシールドビーム2灯を配置している点はキハ58系と共通である。運転台前面窓は隅部に斜めの平面ガラスを配置することで簡易なパノラミックウィンドウを採用し、前面は国鉄キハ82形の意匠に類似する。正面貫通路上はキハ58系にある列車種別表示幕を廃した代わりにスピーカーが仕込まれ、名鉄特急(パノラマカー)の象徴であるミュージックホーンの吹鳴装置を装備していた。通常の空気笛は冬季降雪時の伝播性(聞こえ易さ)を考慮して、国鉄車両と同型のタイフォンを装備した。

ファイル:Meitetsu-DC-8000.jpg
犬山橋を通過するキハ8000形

国鉄気動車並みの20m級車体ではあるが、カーブなどで限界に抵触しないよう車幅をキハ8200形で2,710mmに、他の形式では2,730mmに抑えた。これは国鉄キハ58系の全幅2,944mmより200mm以上狭い仕様である。のちに製造された1000系8800系中間車やキハ8500系においては、20m級車体であっても端部の角を落とすことで2,740mmの車体幅を確保しているが本系列では車体全体の幅を抑えた構造になっているため特に車体幅が狭い。

枇杷島分岐点の急カーブに対応するため、連結面の隙間は国鉄車両の500mmより拡大され、730mmとしている。客用扉は戸袋の不要な2枚折戸を用い、車体内側の空間確保に配慮した。乗降口は乗降頻度の少なさと床上配置の放熱器を設置する空間を確保するため、運転台とは反対側の1か所のみである。

当時非冷房が主体であった国鉄の準急用車両に比べ[4]、「特急車両」に準じて設計された本系列の接客設備は列車種別相応の設備から乖離する懸念も指摘されたが、名鉄は自社の方針を堅持した準急用気動車として本系列を完成させた(それと引き換えに全車指定席制となった。自由席が設けられたのは特急格上げ後である)。なお、本系列と同様に観光路線向けの準急用として特急車両並みの設備で登場し、実際に後年は専ら特急用とされた点では国鉄157系電車の前例がある(ただし同系は新製当初非冷房。また側窓は1段下降式であった)。

  • 名鉄は元々市内電車を出発点とし、特に旧名岐鉄道の各路線では終戦直後(名古屋本線の直通運転開始)まで小・中型車両が主体であった影響から、今でも枇杷島橋梁付近などに急カーブが残り車両限界(車幅)も国鉄・関東の大手私鉄などより一回り小さい「地方鉄道車両定規」2,744mmを守り通している。

個別形式

キハ8000形

テンプレート:Vertical images list 片運転台の二等車で1965年7月に2両(8001・8002)が製造され、その後1969年9月に1両(8003)が増備された。走行用エンジン1基と、冷房電源用エンジンを1基搭載する。1976年の特急格上げ時、客室前方の一角に車掌室を設置した。

キハ8050形

運転台のない中間二等車で、1965年7月に2両(8051・8052)が製造された。高山本線の急勾配に備え、走行用エンジンを2基搭載する。

キロ8100形・キロ8150形

私鉄には珍しい一等車(1969年からグリーン車)で1965年7月に先頭車1両(8101)中間車1両(8151)が製造された。リクライニングシートを装備し、他形式と同様の連続窓だが、座席1列に1窓の割で配置されているため窓幅が狭い。走行用エンジン1基と、冷房電源用エンジンを搭載する。

1970年の立山直通運転に際してグリーン車(旧一等車)の乗車率なども考慮した輸送力見直しが行われ、座席を普通車仕様の転換クロスシートに交換して普通車キハ8100形(8101)に格下げされた。8151には運転台取付改造も行われ、キハ8100形に編入されて8102となった。この時に取外されたリクライニングシートは当時計画のあった特急専用車に転用するため保管されていたが、車両計画の停滞により使用されないまま後年に廃棄されている。1985年に廃車された。

キハ8200形

テンプレート:Vertical images list 立山直通に際して不足する駆動力を補強するため増備。片運転台の普通車で、1969年9月に5両(8201 - 8205)が製造された。走行用エンジン2基の他に電源用エンジンまで搭載した重装備車であり、他のキハ8000系各形式の全長19730mmに対し、床下スペース確保のため全長を20730mm に延伸している。これは当時名鉄の車両で最大であった[5]。車体延長に拘らず、ラジエターの追加で定員はキハ8000形より4名減少した。また長い車体がカーブ通過時に車両限界に支障しないよう、車体幅もさらに狭い 2,710 mm となっている。キハ8000系のうちで最後まで残った形式である。 テンプレート:-

沿革

「たかやま」運用

8000系は1965年8月から運行を開始した名鉄神宮前駅 - 高山駅準急列車たかやま」の専用車として、まず6両が製造された。当時から塗色は国鉄急行形気動車に準じ、クリーム4号地色に、窓回り、車体裾、屋根水切りが赤11号で、運転台周りの塗り分けも全く同一である。

冷房付のデラックス準急は名鉄沿線から高山方面へ出掛ける観光客に人気を集め、当初は全車指定席で運行されたにもかかわらず、特にオンシーズンは指定席券を確保するのが難しい列車となった。

国鉄は1966年に、走行距離100km以上の準急列車を急行列車へ格上げする施策を行ったため「たかやま」も同年3月から急行列車となった。

変則的運用として国鉄からの要望で1967年7月15日 - 8月26日8月12日を除く)の毎土曜日に名古屋駅 - 高山駅間の臨時夜行急行「りんどう」に投入された例がある。

  • 「りんどう」は名古屋駅23時28分発 - 高山駅3時05分着のダイヤで下り列車のみの運転とされた。
  • 運用(車両受け渡し)は、当日(土曜日)の「たかやま」と夕方の自社線(ディーゼル特急)運用を終えて燃料を補給後、神宮前駅 - 熱田駅間の連絡線から国鉄側へ入線。上り(復路)は日曜日の高山発が未明の3時過ぎでは乗客が見込めないことや定期の「たかやま」運用に支障を与えないために回送とし、早朝に鵜沼駅から犬山線経由で新川工場(現・新川検車区)へ入庫とされた。ただし、国鉄では岐阜駅で進行方向が逆転(スイッチバック)するため、犬山線からは下砂杁信号場西枇杷島駅隣接の三角線)を経由して新川工場へ入庫し、方向転換を行った。
  • なお名鉄では間合い運用で自社線内の「ディーゼル特急」で運用していたが、「りんどう」運転翌日は7000系などのパノラマカーで代走を行った。

「北アルプス」運用

キハ8000系の運用が大きな発展を見せたのは1970年である。この年7月、立山黒部アルペンルートが貫通(開通)し運行(乗り入れ)区間も夏季限定ではあったが、玄関口である富山地方鉄道(富山地鉄)立山線立山駅富山駅経由)まで延長され、列車名も「たかやま」から「北アルプス」へと改称した。このため所要の車両数確保を目的として、キハ8000形・キハ8200形計6両を増備している。

またこの延長運転には名鉄が当時最も注力していた北陸進出の一環との意味合いも込められており、資本参加を画策していた富山地鉄に対する影響力の増大を意識した名鉄の企業戦略に則ったものであった。後に富山地鉄への資本参加(グループ化)は断念したが、その後も良好な協力関係を築くきっかけともなった。

1976年10月、国鉄の増収政策を背景に「北アルプス」は特急列車に格上げされた。客室設備の水準の高さがこの措置を可能としたとも言える。塗色は急行色のまま塗分のみ国鉄特急形気動車に準じた形に変更され、運転台窓下に羽根状の帯を入れた。これより、国鉄のキハ82系に一層よく似たものとなった。予備車も少なく一夜にして急行から特急へ変更する経過措置として塗色はそのまま急行色を使用したと思われるが、結局この配色は8000系全廃時まで変更されることはなく、全国で唯一、急行配色のまま運行された特急列車であった。

立山乗り入れは1983年夏まで13年間継続したが、名古屋駅 - 富山駅間の直通客は所要時間の短い北陸本線経由の特急を利用するという実情もあり同年の夏季ダイヤ終了後は神宮前駅 - 飛騨古川駅間に運転区間を固定し、富山地鉄への直通も取りやめた。その後、1985年には再び富山駅まで区間延長されたが、同時に車両運用(連結両数)も見直され余剰となったキハ8100形2両がこの時点で廃車された。この時期には通常キハ8200形またはキハ8050形2両+キハ8000形1両(2M1m)の3両編成での運行が基本となっていた。

国鉄民営化によって発足した東海旅客鉄道(JR東海)は1989年、高山線特急「ひだ」に従来のキハ80系気動車に代わり、大出力エンジン搭載の新型車キハ85系気動車を投入した。1970年代後半には簡易リクライニングシート、90年代に入れば本格的なリクライニングシートが標準仕様であった優等列車の設備傾向に比し、1960年代の仕様であるキハ80系の「回転クロスシート」より水準の低い狭幅の「転換クロスシート[6]で、走行性能も、最終的に2基エンジン車のみになったとは言え1960年代の急行形気動車並みであり[7]、さらにもともと特急運用を想定していなかったこともあり、台車も金属バネ仕様であった[8]キハ8000系の陳腐化が顕在化した。もとより準急列車への使用を企図した接客設備は準急・急行形としては優秀であったが、特急形の水準としては十分なものではなかった。

1990年には西日本旅客鉄道(JR西日本)エリア内への乗り入れを中止し、再び運転区間を高山駅までに短縮したが翌1991年、「北アルプス」の車両は後継形式のキハ8500系気動車に置換えられ、キハ8000系は残存の全車が運用を終了し、除籍された。その後、尾西線日比野駅側線に稼動可能な状態で留置され、対外譲渡を検討したものの車齢と車体重量が原因で成就せず、最後に残ったキハ8200形5両も全て解体された。

間合い運用

「たかやま」「北アルプス」としての直通運用のほか間合い運用名鉄線内の特急列車にも使われた。また富山地鉄でも立山駅での折り返し時間(特急昇格時ダイヤで15:05着 - 翌11:05発)が長いことから、同社線内立山駅 - 宇奈月温泉駅間の「アルペン特急」などで運用された実績もある。 テンプレート:-

脚注

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関連項目

テンプレート:名古屋鉄道の車両

テンプレート:ブルーリボン賞選定車両一覧
  1. 元々、準急形・急行形車両であった車両が特急列車への格上げによって事実上の特急形車両になった事例は他にも東武200・250系300・350系国鉄157系がある。
  2. 国鉄キハ80系は2.613(最高速度100km/h)、同キハ181系は2.362(同120km/h)、JR東海キハ85系と名鉄キハ8500系が2.280、JR北海道キハ183系の130km/h対応車は2.000である。
  3. 国鉄キハ80系は床面高さが同じで、屋根高さは3,490mm。
  4. 当時の準急・急行列車の二等車は一部の例外を除き非冷房で、一等車でさえ冷房化途上であった。当時の高山本線の準急列車には一等車いえども非冷房・非リクライニングシートの車両さえあった。
  5. 名鉄において20m級車両は既に初代3700系(私鉄向け63系)の前例があったが、車体外寸が20mジャストで最大長が20m超となったのは本形式が最初。引き続きオーバーハングを自社の電車と同様に短く取ったため台車間が長く、曲線での車体偏倚が大きいため車体幅をさらに狭めることになった。
  6. ただし、「北アルプス」特急格上げ時点での新幹線0系も普通車の座席は転換クロスシートであった。シートピッチは名鉄が900mm、0系は940mmで各々の標準値に従っている。昇格当時の国鉄特急車ではこれ以外に例がなかった。後年、特急列車・普通列車兼用として製造された185系電車や、1986年に特別保全工事が施工された「ひだ」用のキハ80系の一部車両では転換クロスシートの採用例がある。
  7. 名鉄線内では、最高速度はもとより曲線や下り勾配の通過制限速度も旧型電車(所謂AL車)並みの「B速度」が適用された。そのため社線内間合い運用の際も、例えば新名古屋駅 - 豊橋駅間の所要時間を電車列車の52 - 53分(当時)に対して60分前後かけるなど、専用ダイヤを組む必要があった。
  8. 新性能有料特急車として金属バネ台車を装着していた車両としては、小田急3000形東武1700系の例がある(後者はのちに空気バネ台車に交換)。