スーパージョッキー
テンプレート:複数の問題 テンプレート:Notice テンプレート:基礎情報 テレビ番組 『スーパーJOCKEY』(SUPER JOCKEY、スーパージョッキー)は、日本テレビ系列で1983年1月9日から1999年3月28日にかけて放送されたビートたけしが総合司会のお笑いバラエティ番組である。放送時間は毎週日曜日13時00分 - 14時00分(JST)。
目次
概要
12年間放送した『TVジョッキー』に代わって登場し、放送期間は16年3ヶ月である。
番組スタート当初は『TVジョッキー』と同じく、一般参加者が登場する番組だったが、後に『THEガンバルマン』が看板のお笑い番組となり、「熱湯コマーシャル」開始以降はお色気番組路線となった。
放送当初は生放送という触れ込みだったが、途中から「2本撮り」による隔週生放送[1]となった。また、『THEガンバルマン』のコーナーは予め収録たものを生本番中にビデオ再生して、観客に見せていた。収録放送ではその時の状況を説明するテロップを画面の隅に表示した[2]。
ゲストの歌についても、当初は生放送で流していたが、後に事前収録したものを放映するスタイルに変更された。
歴代最高視聴率は1987年8月2日放送分の20.5%(関東地区、ビデオリサーチ社調べ)。たけしがフライデー襲撃事件後、当時の5本のレギュラー番組の中で最も早く復帰を果たした回の放送で記録したものである。初回視聴率は11.8%だった(同上)。
出演者
総合司会
- ビートたけし(ツービート)
進行(女性アシスタント)
開始当初の3ヶ月間は子役をアシスタント(ただし進行は全てたけしが担当していたため、ここで触れている”進行役”という意味でのアシスタント役とは厳密には異なる)として出演させた後、1983年4月からはアシスタントとして女性タレント・自局アナウンサーを起用し、ハガキ・お便りの募集などのインフォメーションコーナー・ゲスト歌手の紹介など細部の進行はアシスタントが担当するようになった。
- 1983年4月 - 1983年9月:春やすこ
- 1983年10月 - 1984年6月:井丸ゆかり
- 1984年7月〜1989年9月までは女性アシスタント制は一旦廃止、たけしの単独司会体制に。
- 1989年10月 - 1992年9月:蓮舫
- 1992年10月 - 1993年12月:薮本雅子・飯島直子・細川ふみえ
- 1994年1月 - 1995年9月:大神いずみ・飯島直子・細川ふみえ
- 1995年10月 - 1996年9月:大神いずみ・飯島直子・辺見えみり
- 1996年10月 - 1997年6月:大神いずみ・辺見えみり・佐藤藍子
- 1997年7月 - 9月:辺見えみり・佐藤藍子・山田まりや
- 1997年10月 - 1999年3月:辺見えみり・山田まりや
- 薮本、大神は当時日本テレビアナウンサー。
レギュラー
フライデー襲撃事件のため、たけしの他軍団主要メンバーが総じて謹慎することになった1986年12月 - 1987年8月までの8か月間に関しては、襲撃事件に参加しなかったつまみ枝豆と井手らっきょとラッシャー板前の3名を「留守番隊」と称して「ガンバルマン」コーナーの中心に据え、不在だったたけし軍団の代役としてダチョウ倶楽部と当時太田プロ所属であった大川興業らが「ガンバルマン」などのコーナーに参加していた。その後、ダチョウ倶楽部は1987年4月、不起訴が決定して一足先に復帰したたけし軍団と交代で番組から一時離れるが、1991年、ビートきよし・石倉三郎・水野晴郎が降板したことに伴い、今度は正式のレギュラーとして番組に復帰、同時に松村邦洋・蛭子能収も新たにレギュラーとなった。
- 全期
- たけし軍団
- 前期(1983年1月 - 1990年12月)
- 宮川泰(映画解説、開始〜1984年6月まで)
- 日景忠男(芸能情報担当、愛称は『美少年評論家』、1984年〜)
- 水野晴郎(映画解説、1985年〜 )
- 稲川淳二(開始〜1987年3月まで)
- 石倉三郎(コント・レオナルド、1985年〜)
- ビートきよし(ツービート)(1985年〜)
- 後期(1991年1月 - 1999年3月)
- 1991年12月まで
- 水野晴郎(映画解説)
- 石倉三郎
- ビートきよし(ツービート)
- 1992年1月から
準レギュラー
その他
スタッフ
- 制作協力:オフィス北野[7]
- 歴代プロデューサー:八田一郎、高橋靖二、渡辺弘、中村英明、藤井淳[8]
- 構成:沢口義明[9]、西川晋、河村達樹、だいもん孝之、高梨武志、吉原政幸
- 渡辺弘
- 初回(当時ディレクター)から1996年6月(当時チーフプロデューサー)まで携わり、以後も最終回まで彼が築いた路線を引き継いだ。その後7月から1999年3月の最終回までチーフプロデューサーは増田一穂が担当した。
番組コーナー
熱湯コマーシャル以外
- THEガンバルマン
- たけし軍団を始め、芸人達が体を張っていろんな事に挑む企画。『熱湯コマーシャル』開始前はこのコーナーが番組の看板コーナーで、主に下記のようなチャレンジ企画があった。ジャズ空手師範・澤村宗など名物講師も登場。末期のナレーションは武居“M”征吾。このコーナーではたけしが手の形を模した坐禅に使う警策のような棒を使ってツッコミをしていた。
- JOCKEY-1
- 「どうですか〜?お客さん」の前身(後述)。最後に「お問い合わせはスーパーJockeyまで」と出ていた。
- JOCKEY-2
- 番組初期から中期まで放映。たけしが座って小ネタを発表するコーナー。有名人のそっくりさんの写真を募集する「よく見りゃ似てるこの2人」や、昔の特撮モノの変なところを重箱の隅をつつくようにツッこむ企画、マイナーで妙な歌ばかりを集めて流す企画「困ってしまうレコード」などを週変わりで発表していた。
- 書きゃいいってもんじゃないんだよコーナー
- 番組初期から中期まで、ザ・ガンバルマンの次のコーナーとして、CMとゲストの歌を挟んだ後に7 - 8分放映されていた。たけしが読む視聴者からのハガキによる質問に、当日のゲスト歌手が答えるコーナー。次週のゲスト名は毎回テロップで紹介されるため、視聴者はそれをもとにハガキを送ることができたため、ほとんどの質問は特定ゲスト名指しだった。このコーナーで採用され、たけしの独断と偏見で運がよかった視聴者には日本エアシステム(当初は東亜国内航空、現:日本航空)から毎週ペア1組に国内線往復航空券(東京 - 福岡間、後に東京 - 札幌間)がプレゼントされた。
- 軍団クイズ・体は資本だ!
- 1980年代末期から1991年秋までのクイズコーナー。前述の「書きゃいいってもんじゃないんだよコーナー」に代わってスタートした。軍団がロケで体を張った対決やゲームに挑戦、スタジオにいるたけしやゲストがその結果を予想するという内容。中でも、浅草キッドが人間が入れるぐらいの発泡スチロールで作られたサイコロの中に入り、それを転がして丁半博打をやる企画はシリーズ化され、様々な所でその巨大サイコロを転がした。しかしスキー場で転がした回では、水道橋博士が入ったサイコロは途中で水道橋が投げ出されたものの無事に雪が積もっている所に着地、玉袋筋太郎に至っては入ったサイコロがスキー場の谷底に落ち、中の玉袋はしばらくの間気絶、周囲に緊張が走るシーンがあった。この映像は、後に「日本テレビの21世紀に残しておきたい映像」に選ばれた程インパクトのあった映像[10]だったが、この一件で椎間板ヘルニアを患った水道橋は「ガンバルマン」のコーナーの辞退を余儀なくされた。
- プライスクイズこれなんぼ?
- 1991年11月にスタート。上述の『軍団クイズ- 』の後を受けて登場した。体を張る企画ではなく、軍団が紹介したものの値段を当てる。一般的なものの値段当てクイズ。
- 言わんのバカ!
- 1990年代前半のコーナー。形式は一般的な「10回クイズ」の応用形で、浅草キッドが言うフレーズを通行人に何度か繰り返させた後、似たようなフレーズや全く違う言葉を言って噛ませる、というもの。元々はニッポン放送『浅草キッドの土曜メキ突撃!ちんちん電車!』からの企画。
- びっくりしたなぁーMOW!
- 1990年代初期 - 中期にあったコーナー。ロケ企画(クイズやドッキリ企画)以外に、生活に役立つ情報[11]を紹介するコーナーも含まれていた。ちなみにこのコーナーには、レギュラー以外に浅草キッドも出演していた。
- どうですか〜?お客さん
- まだ知られていないマイナーな製品を紹介するコーナー。誰も欲しがらないような、あまり意味の無い製品を紹介することも多かった。軍団メンバーによる実演もあった。
- 番組初期 - 中期時代は「JOCKEY-1〜週変わりのサブタイトル」で称され、ビートきよしと石倉三郎が週交代でマイナー製品コーナーの進行をしていた。
- なお「どうですか〜?お客さん」というタイトルは、たけしプロレス軍団が新日本プロレスに登場した際、アントニオ猪木が発した言葉に由来している。
- ゾロ目でドーン!
- 番組最末期にあったコーナー。ゲスト・一部の観覧客を含めた出演者が1人ずつサイコロを投げて、予めたけしが出したサイコロの目と同じ目を出す事を目指す。たけしの出した目に応じて賞品を決定。制限時間内でたけしが出したサイコロの目を出した人は、賞品獲得を賭けたサイコロを振る[12]。賞品は、サイコロに書かれた「本人」の目を出せば本人に、「視聴者」が出ると視聴者にプレゼントされた。大抵サイコロに細工がしてあったりラップが厚かったりと、視聴者プレゼントになるようないかさまが施されていたが、それでも数回程、出演者が賞品を獲得するケースもあった。ただ生放送時は、制限時間を設定せず時間になったら終了となった。
- その他のコーナー
- 映画解説(番組初期 - 中期)
- 芸能情報(番組初期)
- ゲスト歌手の歌(番組初期 - 中期はオープニング直後・番組中盤・エンディング直前の3曲、後期は番組中盤とエンディング直前の2曲)
熱湯コマーシャル
『THEガンバルマン』の名物コーナー『熱湯風呂』から派生して1989年ごろに始まったコーナー。「熱湯CM」と略される。進行役はタカと歴代女性アシスタントが担当。テレビコマーシャルをしたい人達が集まり、「熱湯ルーレット」とよばれるルーレット[13]で熱湯[14]に入る人を決め、熱湯に入れた秒数(最大30秒)で宣伝をする企画。
当初は湯船の底に着けられたセンサーに挑戦者の体が触れるとタイマーが作動してアナウンサーが実況風にCMを読み上げ、湯が熱くてセンサーから離れるとCMが中断する方式だった。その後出場者が専用のブースに入って自ら時間内にCMを読み上げる方式に変更された。
ナレーションを日本テレビアナウンサーの菅谷大介が担当しており、「熱湯アナウンサー」として出題者を務め、毎回出場者にいじられるのがお約束であった。なお、質問に答えられないとやかんや鍋に入った熱湯が追加された。
ルーレットは後に、宣伝内容に関係する出演者や番組として熱湯に入れたい出場者の名前を書いたマグネット製のシールを貼って、的を上書きし当たり易くされるようになった。また、ルーレットの赤い電気の部分は初期は電球が露出していたが、後に黒い枠に電気が埋め込むタイプにマイナーチェンジされた。ルーレットの回る時や止まる時のSEも何度かマイナーチェンジされている。
- 生着替え
- ルーレットの結果により急遽入湯することになった場合、その場で天井から電気でつられたカーテン囲みされた「簡易脱衣室」が設置され、水着等[15]に着替えることになる。当初、着替え時間は無制限だったが、途中から時間が経つとカーテンが自動的に下に落ちる形[16]に変更された。制限時間については私服の女性は原則60秒→50秒[17]、男性は服装・人数にかかわらず30秒であり、人数が多い場合は、女性はスケスケ生着替えとノーマル生着替えを併用し、男性は女性用[18]を借用することもある。女性の場合30秒経過するとBGMが流れ始めて[19]、それに合わせて出演者や観客が手拍子をし、終了間際になるとスタッフや進行役からタオルを投げつけられる。時間待たずに着替え完了の場合は途中でカーテンが落ちる。
- さらに、女性には不定期で水着から水着へ着替える「泡風呂生着替え」もあった。着替えが間に合わなかった場合は先述の投げ込まれたタオルで隠して入湯する[20]。
- また、着替え中に脱衣室を上のアングルから撮ったカメラもスタジオの天井にあり[21]、着替え終わった人は前の方にある回転床に乗り、タカ[22]の「レッツ!しだるま[23]タイム!」という掛け声と同時にその姿をお披露目した。
- ハプニング
- ハプニングも多発した[24]。
- このシステムを逆手に取り、たけし軍団やダチョウ倶楽部が生放送にも関わらず、タイムオーバーを狙い観客やゲストの前で水着を着けずにわざと全裸状態になって、このままスタジオ中を走り回るなどの行為[25]を行なったり、前期に関してはグレート義太夫のバンド関係者が熱湯CMに出演した際は、一部のメンバーが入ることとなったものの、何時の間にか「THEガンバルマン」中期で見られた軍団同士による熱湯風呂の落とし合いとなり、軍団メンバーが服を着たまま落とされたり、畳くらいの大きさの板を持ち出し軍団メンバーが入っている状態で風呂にふたをしようとしたり、ついには井手が全裸(前は看板で隠していた)で乱入して熱湯風呂に落とされたりとやりたい放題でスタジオ中が一時パニック状態となった。
- 後にガラス張りの箱の「スケスケボックス」の中で着替える「スケスケ生着替え」にまで発展。スケスケボックスの下部分は透けていないため、しゃがんだだけで尻が見えてしまうハプニングが続出した。
- アナウンサーの入湯
- 1993年、当時日本テレビアナウンサーの薮本雅子が熱湯ルーレットに当たってしまうという出来事があった。薮本は困惑する態度を示したが、タカに説得され、渋りながらも「お給料上げてもらえるのかしら?」と水着への着替えを受け入れた[26][27]。その後、本番組をネットしていた系列局のアナウンス部がこの件について、「一社員にこんないかがわしいことをさせるとはどういうことだ!」との批判が沸き起こり、これを機に同局女性アナウンサーが入湯するのは禁止された。
- ところが、それから4年後の1997年に当時番組アシスタントで同局アナウンサーだった大神いずみが熱湯ルーレットで「スケスケ生着替え」のマスに当たるという事態が起きた[28]。大神はその際入湯を拒否し、代わりに同席した松永二三男(当時日本テレビアナウンス部長)が藪本の一件以降のアナウンス部の方針について謝罪した後、松永をはじめ、居合わせた藤井恒久(日本テレビアナウンサー)と金子茂(当時日本テレビアナウンサー。現:記者)が代わる代わる熱湯に浸かった。しかしながら、大神のこの態度には全国から抗議の声が殺到した。この放送後、本人不在のまま大神を番組から降板させることが決定。ただ、この入浴拒否に対する抗議の中には「これは仕事だろ」といった内容のものが多かった。
- たけしの入湯
- ルーレットには、金色に塗られた「殿」(=たけし)のスペースもあったが、ルーレット1コマ分しかスペースがないので、滅多に当たらなかった。しかし、放送500回記念だった1994年7月31日の放送で、非常に大きな的だったとはいえ初めて「殿」に命中。たけしが遂に熱湯に入ることとなった。
- 復活放送
- 本番組終了後、過去の経緯もあり事実上封印状態であったが、2005年8月28日早朝、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』内にて、長年の沈黙を破り「スーパーJOCKEY同窓会」という形で一夜限りの復活を果たした。その後2009年まで毎年『24時間テレビ』内の深夜枠で行われた。番組内容に配慮し、女性タレントが水着に生着替えする際、あらかじめ服の下に水着を着込んでいることで放送事故を未然に防ぐという措置が取られていた。CMの内容は番組内のコーナーを紹介するものや、募金を呼び掛けるものが主流だった。
- しかし、2010年の『24時間テレビ』深夜企画は前年の内容からの一部変更により中止し、そのまま終了となった。
- パロディ
- 2006年のNHK『第57回NHK紅白歌合戦』に出場したDJ OZMAが歌唱時に「熱湯コマーシャル」で使用される簡易脱衣室を用いて生着替えを行っていた。
- 2008年4月26日のフジテレビ系列『めちゃ×2イケてるッ!』では「熱湯コマーシャル」をパロディ化した企画「突然熱湯コマーシャル」が放送され、その2週間後の5月10日からは1コーナー化された。
- 『AKBINGO!』(2011年7月20日放送分)の「ムチャぶりドッジボール」では「熱湯風呂」の罰があり、熱湯風呂やカウント時計も用意した。
- 『DON![32]』では、益若つばさが選んだ服ににしおかすみこが「熱湯コマーシャル」で使用された簡易脱衣室を使って生着替えをする企画が水曜コーナーとして行われていた。
エンディングテーマ
- 1996年10月 - 1997年9月:辺見えみり「流れ星」
- 1997年10月から半年間:山田まりや「daijo-bu!! 」
- 1998年4月から4ヶ月間:パイレーツ「INCATATION」(デビュー曲)
- 1998年8月から最終回まで:上島竜兵&辺見えみり「アッチッチサンバ」
ネット局
系列は放送終了時のもの。遅れネット局含む。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 日本テレビ系列 | 制作局 |
北海道 | 札幌テレビ | ||
青森県 | 青森放送 | ||
岩手県 | テレビ岩手 | ||
宮城県 | ミヤギテレビ | ||
秋田県 | 秋田放送 | ||
山形県 | 山形放送 | ||
福島県 | 福島中央テレビ | ||
山梨県 | 山梨放送 | ||
新潟県 | テレビ新潟 | ||
長野県 | テレビ信州 | 1991年4月から | |
静岡県 | 静岡第一テレビ | ||
富山県 | 北日本放送 | ||
石川県 | テレビ金沢 | 1990年4月開局から | |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
|
中京広域圏 | 中京テレビ | 日本テレビ系列 | |
近畿広域圏 | 読売テレビ | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | ||
広島県 | 広島テレビ | ||
山口県 | 山口放送 | ||
徳島県 | 四国放送 | ||
香川県→ 香川県・岡山県 |
西日本放送 | 1983年3月までの放送エリアは香川県のみ。1983年4月から電波相互乗り入れに伴い岡山県にもエリア拡大。 | |
愛媛県 | 南海放送 | 1995年4月から。 | |
高知県 | 高知放送 | ||
福岡県 | 福岡放送 | ||
長崎県 | テレビ長崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
1990年9月まで。 |
長崎国際テレビ | 日本テレビ系列 | 1991年4月開局から。 | |
熊本県 | くまもと県民テレビ | ||
鹿児島県 | 鹿児島テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
1992年3月まで。 |
鹿児島読売テレビ | 日本テレビ系列 | 1994年4月開局から。 |
番組の休止
毎年2月の「横浜国際女子駅伝」と8月の「24時間テレビ」放送時は休止。また、偶数年2月の「東京国際マラソン」(建国記念の日が日曜日の際は回避)と1990年代まで12時に号砲した時期の「札幌国際ハーフマラソン」(札幌テレビ制作)、かつてあった「都道府県対抗マスターズ駅伝」(読売テレビ制作)の際も休止した。1998年の「横浜国際女子駅伝」は長野オリンピックの大会日程の関係で14時から生中継だったため、本番組は通常放送。その番組内の「熱湯コマーシャル」で宣伝した。
番組初期は後楽園球場からのプロ野球中継のため度々休止され、稀に日本シリーズを放送する場合も休止していた。系列局では編成の関係で同時間内で放送せず、移動から休止する場合もあった。
脚注
テンプレート:ダチョウ倶楽部- ↑ 生放送終了後に翌週放送分をほぼ「撮って出し」に近い状態で収録するスタイル。
- ↑ テロップの表示方法でその日の放送が生放送か収録かが一応見分けられるが、収録放送においても『THEガンバルマン』を除いた、演出上「生放送」とされている部分については「なぞりテロップ」は事前に台本で発言されることが決められているギャグや決め台詞を除いて使用されていなかった。
- ↑ 回によってはたけしの親友である所ジョージも参加。
- ↑ 1997年10月 - 1999年3月。
- ↑ 1997年7月 - 1999年3月。日本テレビアナウンサー。
- ↑ 『タイムボカンシリーズ』の悪党風の声でナレーションをやっていた。
- ↑ 1988年までは「太田プロダクション」とクレジットされていた。
- ↑ 藤井は「熱湯コマーシャル」で社長賞をもらった。
- ↑ 沢口は上島竜兵&辺見えみりの番組内でのユニット「熱湯兄弟」が歌う『アッチッチサンバ』の作詞を手掛けた。
- ↑ NHK総合テレビ『スタジオパークからこんにちは』(2010年6月3日放送)に浅草キッドがゲスト出演した時にも流された。
- ↑ 「痴漢撃退法」、「スケベ体操」などの過激な内容もあった。
- ↑ 後に、顔面ラップ破り等のゲームに変更。
- ↑ スイッチはスタートとストップの2種類がある。
- ↑ 熱湯の温度は摂氏51度前後。この温度は人体には非常に熱く感じる。
- ↑ 稀に体育服とブルマーへの着替えもあった。
- ↑ ハプニングを起こすことを意図した仕組み。
- ↑ 水着から水着への着替えの場合もあり、その時は40秒。
- ↑ スケスケ生着替え。
- ↑ 男性の場合は着替えスタートと同時に同BGMが流れる。時間が経った際は悪魔の笑い声のようなBGMが使われており、時間内に着替え終えると別のBGMになる。
- ↑ また、女性アシスタントが救済を意味した「済」と書かれたモザイク代わりの札を持っており、胸や股間を隠していた。
- ↑ このカメラは「無人君」との名称が付いていた。
- ↑ タカが入湯する際は女性アシスタント。
- ↑ 「しだるま」とは「まるだし(丸出し)」の逆読み。
- ↑ 時間内に着替え終わらない、胸や股間が露出しそうになる、数人で一気に着替えている途中で尻がはみ出す、女性が着替えが間に合わずバスタオル1枚の姿で熱湯風呂に入った時に熱さのあまりバスタオルを外してしまい胸が露出するなど。着替えが間に合わなかった女性に対し、タカが水着の着用を認めずバスタオルを巻くよう指示することも恒例だった。
- ↑ 井手らっきょに関しては、自分に当たった直後、脱衣場外ですぐ全裸になったり、ワザと脱衣場の出入り口(真裏なのでテレビカメラには映らない)から転がり落ちてゲストや観客に全裸を見せることもあった。
- ↑ ただし、着替えはスタジオ外で行った。
- ↑ 藪本の水着への着替え・入湯については他局のアナウンサーからも絶賛の声が上がったという(後述の大神の回でタカが語ったもの)。
- ↑ この回では、日本テレビアナウンス部が関係している宣伝のために大神の名前が書かれたネームプレートが用意された。ちなみに大神の名前は通常の状態のルーレットにも記載されていたのだが、大神はその部分を隠さずにネームプレートを貼ったので、当たる確率は余計に上がることになった。
- ↑ 一般人・芸能人含めて未成年者が入湯した事例はある。
- ↑ このCDのカップリングは、当時出場者にエッチなクイズや質問を出題するミニコーナー「熱湯クエスチョン」の質問集が収録されている。
- ↑ 後にこの曲はコーナーのオープニングや底のセンサーが作動している際のBGMとして使われるようになった(『24時間テレビ』での復活放送の際もこの手法が踏襲されている))。
- ↑ 2010年3月までは『おもいッきりDON!』。