吉岡定勝
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吉岡 定勝(よしおか さだかつ、天文元年(1532年) - 慶長11年(1606年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。因幡山名氏の家臣。将監・安芸守との記録もある。
概要
吉岡氏は南北朝以来、湖山池西岸を本拠とした国人領主で、代々因幡山名氏に仕えたが、定勝の代である1573年(天正元年)に因幡国に進出した吉川元春により本領を安堵された。
天正9年(1581年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際は毛利氏に与し、居城・防己尾城に拠って羽柴軍を迎え撃っている。秀吉軍の防己尾城攻撃は合計3回行われたが、定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法で、いずれの時も秀吉軍を撃退している。特に2度目の攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。
しかしその後は秀吉軍の長囲による兵糧攻めにあって落城する。城を出た定勝は安芸国に赴いて毛利氏のもとに身を寄せるが、やがて毛利氏のもとを離れ、諸国放浪の末に因幡国に戻って帰農した。また、この一族から池田氏の藩政時に登用された者もいたが、明治維新以後は大阪などへ移住したため、鳥取県には吉岡温泉郷などの地名は現存するが、吉岡姓は少ない。