美浜発電所
美浜発電所(みはまはつでんしょ)は、福井県三方郡美浜町丹生にある関西電力の原子力発電所である。
目次
施設概要
Googleマップ 若狭湾に面する敦賀半島の西部に位置しており、日本の電力会社として初めて開設した原子力発電所である。
発電所に向かう丹生大橋の入り口に、発電所のPR施設「美浜原子力PRセンター」がある。また、発電所施設内には樹齢300年を超える黒松の「根上りの松」(ねあがりのまつ)があり、日本の白砂青松100選に選ばれている[2]。
近くには、丹生海水浴場、水晶浜海水浴場、ダイヤモンドビーチなどの海水浴場がある[3]。
歴史
関西電力は、原子力発電所の設置を広大な敷地が確保できる点や自然災害が少ないなど、候補地を日本海側は能登半島から丹後半島、太平洋側は紀伊半島を選定していたテンプレート:Sfn。その中で、関西電力は1961年10月、敦賀半島の敦賀市浦底地区と美浜町丹生地区の2か所を調査地点に選定した。翌年の1962年に、調査対象地点の1つである丹生地区で発電所の開発が進められることになった[4]。
関西電力の当時の社長であった芦原義重が陣頭指揮を取り、1965年1月に社内に「建設推進会議」を設置。「万国博覧会に原子の灯」の合言葉の下で1967年8月21日に1号機が着工した。
1970年7月29日に、1号機が臨界に達し、1970年8月8日に大阪府吹田市で開催されていた日本万国博覧会の会場に約1万kwを試送電し、会場内の電光掲示板に送電されたことが表示されたテンプレート:Sfn[5]。1号機は、同年11月28日に営業運転を開始し、電力会社として初めて原子力発電の運転を開始した。
発電設備
番号 | 原子炉形式 | 主契約者 | 定格電気出力 | 定格熱出力 | 運転開始日 | 設備利用率 (2009年度) |
現況 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1号機 | 加圧水型軽水炉(PWR) | WH、三菱原子力工業 | 34万kW | 103.1万kW | 1970年11月28日 | 73.7% | 定期点検中 |
2号機 | 加圧水型軽水炉(PWR) | 三菱原子力工業 | 50万kW | 145.6万kW | 1972年7月25日 | 72.8% | 定期点検中 |
3号機 | 加圧水型軽水炉(PWR) | 三菱商事 | 82.6万kW | 244万kW | 1976年3月15日 | 75.2% | 定期点検中 |
美浜発電所における、想定される地震の強さは750ガル、津波の高さは1.53mから1.57m[6]。
過去の主なトラブル
- 1973年3月(日付不明)
- 美浜1号機において第三領域の核燃料棒が折損する事故が発生した。しかしこの事故は当初外部には明らかにされず、関西電力は秘密裏に核燃料集合体を交換しただけであった。
- この事故が明らかになったのは、当時、雑誌『展望』に「原子力戦争」(講談社文庫に収録)を連載していた田原総一朗に宛てて内部告発[7]があったためである。田原はこれを「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑」(『原子力戦争』講談社文庫に収録)として明らかにした。これを受けて、衆議院議員の石野久男が衆議院科学技術振興対策特別委員会などで追求した結果、原子力委員会はこの事故を認めた。しかし、原子力委員会が認めたのは1976年12月7日であり、事故が発生してから4年近く経って後であった。
- 内部告発では、この事故は核燃料棒が溶融したものと指摘していたが、原子力委員会の発表ではこれは溶融ではなく「何らかの理由で折損」したものであり、「重大な事故ではない」としている。しかし、田原はこの発表に対し「原子力戦争」の追記で、「この発表の内容はもとより発表前後の経過にも、つじつまの合わない点や新たな疑惑が数多く指摘されており」と疑問を投げかけている。
2004年蒸気噴出事故
事故
2004年8月9日午後3時半頃、通常運転中の3号機二次冷却系の復水系配管が第4低圧給水加熱器と脱気器との途中で突然破裂し[9]、高温高圧の二次系冷却水が大量に漏れ出して高温の蒸気となって周囲に広がった。事故当時、現場のタービン建屋内では、定期点検の準備のため、211人が作業をしており、問題の配管室内には11名の作業員がいた。事故直後に死亡した4名の死因は全身やけど(熱傷)および、ショックによる心肺停止で、ほぼ即死に近い状態だったとされる。また、事故から17日目の8月25日には、全身やけどを負っていた作業員1名が死亡したため、最終的には死亡5名・重軽傷6名となった。美浜発電所の加圧水型原子炉は、放射性物質を一次冷却系内に留めるよう設計されているため、この事故での汚染や被曝者はいない。
原因
炭素鋼製の直径55cm、肉厚10mmの配管の内面が腐食などによって減肉し、事故当時は肉厚1.4mmにまで減肉していた。150℃10気圧という運転圧力と流体振動に耐えられずにこの部分の上側を起点に大きく破裂したと考えられる。
破裂箇所の上流側には圧力差から流量を計測するためのオリフィスと呼ばれる狭窄部が設けられており、ここで生じた過流によるキャビテーションが徐々に配管内面を削り、運転開始から28年の後に遂に強度的に耐えられなくなったと考えられている。
本来は肉厚4.7mmまで減肉してしまう前に予防措置をとるという内部規則があり、1989年には配管を検査し1991年には取り替えることになっていたにもかかわらず、関西電力と検査会社(三菱重工業と日本アーム)の見落しで点検台帳に登録されておらず、この個所は稼動以来の27年間一度も点検さえ行われていなかった[10]。当時の二次冷却系の冷却水は水質に問題があり、さびに弱い安価な炭素鋼製の鋼管に、オリフィスによるエロージョン・コロージョンが生じた[11]ということで原因の説明はついたが、他の多くの原子炉もまた同様の環境下にあって、確かに本事故後の検査では同種の減肉がいくつも発見されたが、美浜原発3号機の減肉は特に大きく、それらの違いの原因は明確ではない[12]。冷却系配管の減肉自体は原子力発電所固有のものではなく、火力など他の冷却水配管を用いるプラントでも、管理が不十分であれば同様の事故が起こりうる。
事後処理
運転中の原子力発電所における死亡事故としては国内初、原子力関連施設での死者としては東海村JCO臨界事故以来7人目であり、関西電力の危機管理能力が問われている。 この事故は原子力施設における労働災害として極めて重大であり、国内の原発事故史上初の「重大災害対策本部」が設置される事態となった。その後、原子力安全・保安院、厚生労働省福井労働局、警察当局が原因究明や関西電力の安全管理体制と責任について調査している。放射線被曝による死亡事故ではないため、国際原子力事象評価尺度での事故評価は「0+」となっていたが、後に安全管理不適切として「1」に変更された。原子力安全・保安院によって全国すべての原子力発電所、火力発電所についても調査し、不備があるところは指導をすることになった。
地震対策
日刊県民福井によれば、現在可搬式の発電機および空冷式の発電機の搬入がされたというテンプレート:いつ。さらに増設予定で、中には海抜32メートルの位置に設置することも検討中である。詳しい設置については今後検討する予定である。 さらに福井県側からも、県内の原発の耐震、津波、冷却系などのバックアップの見直しを指示したとしている。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite
- 『新潮45別冊 日本の原発』 - 新潮社(2011年) ISBN 4910049380512
外部リンク
テンプレート:Coord- ↑ 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成(1975年度撮影)
- ↑ 根上りの松 - 美浜発電所
- ↑ 海水浴場から見える原子力発電所としてRCサクセションが歌った「サマータイム・ブルース」(『COVERS』収録)に登場する原発のモデルと言われる。
- ↑ 浦底地区は日本原子力発電が開発を進めることになった。
- ↑ 美浜発電所の概要
- ↑ 『新潮45別冊 日本の原発』 - 新潮社(2011年) 48ページ記載。
- ↑ この内部告発では福島第一原発2号機で1976年4月2日に起きた火災事故についても触れられていたが、東京電力がこの火災について認めたのは告発のあった1か月後であった。
- ↑ 日本分析センター、環境放射線データベース
- ↑ 美浜原発3号機では3系統ある二次冷却系のうちの1系統の復水系配管が破裂した。蒸気がタービンを駆動してのち、復水器で熱湯に戻された二次冷却水は、一次冷却系から熱を受け取る蒸気発生器に送られる前に一度、4段階の給水加熱器で加熱される。破裂したのはこの4つ目の給水加熱器と蒸気発生器手前の脱気器との間である。
- ↑ テンプレート:失敗知識データベース
- ↑ 美浜発電所3号機事故について
- ↑ 日経ものづくり編集、『重大事故の舞台裏』、日経BP社、2005年10月11日第1版第1冊、ISBN 4822218856