チャールズ・ジェンキンス

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テンプレート:基礎情報 軍人 チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins、1940年2月18日 - )はアメリカ合衆国の軍人。最終階級は陸軍軍曹

下士官として朝鮮半島軍事境界線に駐留中に北朝鮮側に投降、2004年まで同国に滞在していた[1]北朝鮮による拉致被害者の一人である曽我ひとみと結婚しており、妻が日本への帰還を果たした後の2004年(北朝鮮側への投降から39年後)、娘達を連れて自身も日本へ亡命した。同地で合衆国軍に出頭し、軍法会議を経て軍を退役した。

生涯

軍歴

ノースカロライナ州リッチスクエア市出身。1955年、15歳でノースカロライナ州軍に入隊志願を出し、規定年齢を下回りながらも州兵登録を受理される。1958年、ノースカロライナ州軍から連邦軍へと転属を許可され、陸軍第1騎兵師団に配属されている。1960年から1961年まで在韓米軍での任務を行い、1964年の欧州軍への転属を経て再び在韓米軍に派遣される[2]

朝鮮半島軍事境界線に駐屯していた時、軍曹に昇進して下士官の地位にあったジェンキンスは当時発生していたベトナム戦争に派遣されるという噂を聞いていた。彼は凄惨な死傷者を出していた同戦争に派遣されるという重圧からアルコール依存症に陥っていた。1965年1月4日、周囲の証言では夜間の警備に付く際、既に多量のアルコールを摂取していたとしている。翌日の早朝、ジェンキンスは部隊に「騒音のする場所を見つけた、偵察に向かう」と告げて偵察に向かい、そのまま戻らなかった[3]

後にジェンキンスは偵察任務中に北朝鮮軍に投降して身柄を確保されている事が明らかとなった。ジェンキンス本人は当時について軍務に不満を感じており、また「ソヴィエト経由の捕虜交換など、早期に帰国する事は難しくないと考えていた」と投降した理由について述べている。北朝鮮では捕虜ではなく実質的に政治亡命者として扱われ、政治的プロパガンダにおいて西側の腐敗を強調する為に喧伝された。強制的に拘束された可能性を主張する声もあったが、軍テンプレート:誰はジェンキンスが軍テンプレート:誰に不満を抱いていた事などを理由に「自主的な亡命である」と結論した[4]

北朝鮮での生活

騒動から暫くはジェンキンスの動向はアメリカ軍を始めとして内外に秘匿され、どの様な状態に置かれているのか不明という時期が続いた。彼自身は「すぐに自らの行いを懺悔した」と告解している。北朝鮮政府はジェンキンスに主体主義を始めとしたイデオロギーを学ばせる再教育を施すなど、帰国させる意図はない事を示した。身柄も拘束されたままで、1972年まで他の3名の米国籍の人間と共に小さな家屋内での軟禁状態に置かれた。金日成の言葉を朝鮮語で暗誦させられ、また頻繁に拷問を加えられた[5]。 北朝鮮における彼の仕事は主に英語教師であった。北朝鮮の英語教育はイギリス英語が採用されていたため、彼の話すアメリカ英語は同国の生徒や教師に驚きをもって迎えられた。

1980年、ジェンキンスは日本人拉致被害者の一人である曽我ひとみを政府に紹介されたという[6]。出会ってから38日後に両者は結婚し、ロベルタ・ミカ・ジェンキンス、ブリンダ・キャロル・ジェンキンスの二女を設けた。1982年、ジェンキンスは政府の命令によって国策映画への出演を命じられ、結果としてこの映画が20年近く消息不明であった彼の姿をアメリカに伝える事になった。しかしアメリカ政府はこの事実を認めず、1996年まで「ジェンキンス軍曹の動向は不明」とする公式見解を続けた[7]

来日と帰国

2002年、日朝首脳会談によって日本人拉致被害者の存在を北朝鮮政府が公に認めると、曽我ひとみの夫であるジェンキンスの消息も同時に明らかとなった。更にその後の経緯によって妻が日本へと帰国を果たすが、ジェンキンスは娘達と共に北朝鮮側の監視に加え、逃亡兵となっている立場から帰国を決めかねていた[8]。2004年、日本政府がアメリカ政府との交渉によって穏当な判決を軍法会議で行う確約を取りつけた事から治療という名目で娘二人とインドネシアへ出国し、第三国経由で妻のいる日本に入国した[9]

2004年9月11日、ジェンキンスは在日米軍キャンプ座間神奈川県座間市相模原市)へと向かい、陸軍憲兵隊長として出迎えたポール・ニガラ陸軍中佐に敬礼の上で出頭を報告し、軍人としての礼式に則った行動を示した[10]。合衆国軍はジェンキンスが軍の指揮下に戻る事を述べた上で、「貴方と家族がこれよりいかなる時も敬意と尊厳を持って扱われる事を保証する」と宣言した[11]。11月3日、軍法会議でジェンキンスは逃亡に関する罪、及び利敵行為に関する罪を認め、合衆国軍は軍曹から二等兵に降格処分の上、不名誉除隊と禁固30日の判決を下した。2004年11月27日、模範囚として予定よりも6日間早く釈放され[12]、正式に軍人としての経歴を終えた。

2005年、93歳となっていた母を見舞う為にアメリカへと家族を連れて帰国し、初対面となる孫と母を引き合わせた[13]。帰国後の6月14日に妻の実家がある佐渡島に居を構え、観光施設の職員として余生を送る事になった[14]。2006年に自らの経験を綴った回想録『告白』[15]を執筆、アメリカでは『望まぬ中での共産主義―逃亡と北朝鮮における40年間の懲役』として2008年3月1日に出版された[16][17]

2008年7月15日、日本政府から半月前に申請していた永住許可が与えられた[18]。その際、インタビューで日本において余生を過ごしたいと応えており、娘らの事情も含めて帰化も考えているという[19]

なおジェンキンス以外にも3名の北朝鮮に残る亡命兵が確認されている(ジェームズ・ドレスノク一等兵、ラリー・アレン・アブシャー一等兵、ジェリー・パリッシュ伍長)。アブシャー一等兵は1962年、パリッシュ伍長は1963年にそれぞれ国外へ脱出しているが、北朝鮮政府は「両名は国内で自然死した」と主張している[20]。2007年、ドレスノク一等兵のみ北朝鮮に残っており、かつ政府への忠誠を発言している[20][21]

出典

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  • Talmadge, Eric "Deserter Adjusting to Life on Japan Island". Associated Press. January 31, 2005.
  • "U.S. Army Deserter to Seek U.S. Passport". Associated Press. February 28, 2005.

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外部リンク

  • テンプレート:Cite news
  • http://www.atimes.com/atimes/Japan/FF05Dh05.html
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  • http://www.atimes.com/atimes/Japan/FF05Dh05.html
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  • "Japan asks U.S. to pardon abductee's American husband", The Japan Times Online, May 16, 2004 (accessed April 18, 2010)
  • テンプレート:Cite news
  • ジェンキンスさん、キャンプ座間に出頭
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  • 『告白』 角川書店 ISBN 978-4047915107(単行本 2005年)、ISBN 978-4042962014(角川文庫 2006年)
  • テンプレート:Citation
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  • ジェンキンスさんに永住許可「死ぬまでここにいたい」. 読売新聞 Internet Japanese edition, July 15, 2008. Retrieved on July 16, 2008 テンプレート:Ja icon.
  • 20.0 20.1 "An American in North Korea", 60 Minutes, CBS Television. Produced by Robert G. Anderson and Casey Morgan. Reported by Bob Simon. First broadcast on January 28, 2007.
  • An American in North Korea, Pledging Allegiance to the Great Leader; New York Times; October 19, 2006