大久保忠佐

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大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名駿河沼津藩主。徳川氏の家臣。

生涯

天文6年(1537年)、大久保忠員の次男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。父や兄忠世とともに松平広忠家康に仕えた。武勇に優れ、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。

天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、上総茂原において5,000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸信繁親子に足止めされている。慶長6年(1601年)、家康から駿河沼津2万石を与えられて大名となった。

嫡男の忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。慶長18年(1613年)9月27日に忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となった。

人物

  • 蟹江七本槍徳川十六神将の1人に数えられる。
  • 長篠の戦いにおいて、織田信長から兄の忠世と共に「膏薬(敵方に貼り付いて離れぬ意か)」と言われてその武勇を賞賛された。

関連項目


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