道玄坂
テンプレート:Pathnav 道玄坂(どうげんざか)は、
であり、命名はこの坂に出没して山賊野盗のふるまいをしたという和田義盛の残党、大和田太郎道玄に因む[2]、もしくは道玄庵という寺の庵主が、徳川家康に由緒書を出したことに因む[3]とされる[1]。
目次
概要
渋谷駅西側の丘陵部に位置する繁華街である。
地区
南から北へ道玄坂一丁目および二丁目がある。地区としては、北に宇田川町、東にJR渋谷駅、南に桜丘町、南平台町、西に円山町に接する。当地域の人口は、758人[4]。郵便番号は、150-0043。
地区の大部分を緩やかな傾斜地が占め、おおむね東の渋谷川方向に下る傾向がある。1970年代半ば頃までは多くの民家が店舗などと共に混在する地域だったが、その後は店舗系の商業地がほとんどを占める反面で近年は業務系のフロアが多くを占めるビルも目立つ。
坂
坂道としての道玄坂はかつての住所で渋谷区上通3丁目に位置し、宮益坂のふもとから続いて西に上っている[5]。上は玉川通りの道玄坂上交差点から、下は渋谷駅前までである。一時期は玉電が坂の中腹から道玄坂上までを走り、現在では玉電の代替とした新玉川線が名称変更した東急田園都市線が坂の地下を通過している。名称は、「道元坂」、「道源坂」と表記されることもあった[5]。
道玄坂は、谷底である渋谷川を挟んで宮益坂(富士見坂)と対面しており、江戸時代に著された『江戸町づくし』には、「行人坂」としても紹介されている[6]。
現在の地理では坂下にはターミナルである渋谷駅があり、坂の沿道には109など東急系の大型店舗・施設を中心に飲食店や雑居ビル、映画館などが多く立ち並んでいる。通りから文化村通りへつながる道玄坂小路には風俗店や飲食店、交番前交差点から円山町と接してBunkamura方面につながる「ランブリングストリート」沿いにはライブハウスやラブホテルが密集する地域もあり、狭い範囲ながらも多様性のある地域である。
歴史
道玄坂について、江戸時代末期に著された地誌 『江戸名所図会』には、次のような記載がある:
- 「道玄あるいは道元に作る。里諺に云、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年(1213年)五月和田一族滅亡す。其の残党此所の窟中に隠れ住て、山賊を業とす。故に道玄坂というなり」
- 「或人云。道玄は沙門にして、此地に昔一宇の寺院ありて道玄寺と称したり。故に坂の名に呼び来れるともいひて、一ならず」
道玄坂地区沿革
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)
- 1943年(昭和18年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1967年(昭和42年)
- 11月1日 - 東急百貨店本店が開店(現在の道玄坂2丁目)
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 8月1日 - 地下鉄半蔵門線が開通
- 1979年(昭和54年)
- 4月28日 - ファッションコミュニティー109(後のSHIBUYA 109)が開業(道玄坂2丁目)
- 2000年(平成12年)
町名の変遷
実施後 | 実施年月日 | 実施前(各町名ともその一部) |
---|---|---|
道玄坂一丁目 | 1970年(昭和45年)1月1日 | 大和田町、上通三丁目、上通四丁目、南平台町、桜丘町 |
道玄坂二丁目 | 上通三丁目、円山町、大和田町、栄通一丁目 |
交通
鉄道
バス
- 都営バス
- 早81系統 渋谷駅東口行
- 池86系統 渋谷駅東口行
- 東急バス
- 小田急バス
- 渋26系統 渋谷駅行、調布駅南口行
- 小田急バス、東急トランセ
- 渋24系統 渋谷駅行、成城学園前駅西口行
- フジエクスプレス
- ハチ公バス渋1系統 渋谷駅ハチ公口行
道路
施設
- 郵便局 - 渋谷中央街郵便局、渋谷道玄坂郵便局
- ハチ公前献血ルーム
- 東急百貨店本店
- Bunkamura
- 渋谷東急プラザ
- SHIBUYA 109
- 渋谷マークシティ
- ヤマダ電機LABI渋谷
- ドン・キホーテ渋谷店
- ハチ公像
旧跡
道玄坂を舞台にした作品
- 文学
- 『怪人二十面相』江戸川乱歩 - 二十面相の隠れ家が道玄坂にあった。
- 『幻魔大戦』平井和正 - 主人公東丈の主催するGENKENの所在地が道玄坂。
- 『悪霊シリーズ』小野不由美 - 主人公谷山麻衣のバイト先、「SPR(渋谷サイキックリサーチ)」の所在地が道玄坂。
- 『みみずのたはこと(水汲み)』徳冨蘆花「余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買つて帰つた。」
- 『九月十月十一月』太宰治「銀座通りといふ賑やかな美しいまちがある。堂々のデパアトもある。道玄坂歩いてゐる気持である。」
- 『文学的自叙伝』林芙美子「三、四ヶ月で馘(くび)になり、私は両親と一緒に神楽坂だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。」
- 『青服の男』甲賀三郎「暖くなった春の宵、望月刑事は別の事件で上京して、渋谷の道玄坂の通りを歩いていた。」
- 『堕落論』坂口安吾「道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。」
- 『武蔵野』国木田独歩「僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神あたりの町、新宿、白金……」
- 『砂がき』竹久夢二「夜も昼も道玄坂をすさまじい響をたてゝ下つていつた陸軍の軍用タンクの自動車は、私の頭に異常な不安を殘したと見えて、いつでも夜ふけてあの響を聞くと、實に荒唐無稽な恐怖におそはれる。」
- 『綺堂むかし語り(箙の梅)』岡本綺堂「渋谷の道玄坂辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ」
- 『晶子詩篇全集(街に住みて)』与謝野晶子「かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の如(ごと)く、突きあたりて曲る、行手の見えざる広き坂を、今結びし藁鞋の紐の切目すがすがしく、男も女も脚絆して足早に上(のぼ)りゆく旅姿こそをかしからめ。」
- 『海野十三敗戦日記』海野十三「通りより道玄坂の右側を通りて下りる。戦災の焼あとに店続々と出来てものすごき勢いなり。」
- 『東京人の堕落時代』夢野久作「東京はこんな風に、大人の享楽主義の天国であるように、少年少女の花の都である。牛込の神楽坂、渋谷の道玄坂、神田の神保町付近、本郷の湯島天神あたりの夜は、今でもそんな気分の「淀み」を作っている。」
- 『海豚と河豚』佐藤垢石「これ(鯨肉)を友達数人と、道玄坂のさる割烹店へ提げ込んだが、ここでは残念なことに、船で食べたような調理の旨味をだしてくれなかったのである。」
- 音楽
- 「雨降り道玄坂」ふきのとう - 1976年(昭和51年)に発表された、道玄坂を舞台に失恋した女性の心境を歌った楽曲。
- 「恋の道玄坂」並木路子 - 道玄坂を舞台に、1986年(昭和61年)にコロムビアから発表された楽曲。
- 「東京の冬」コブクロ - 「道玄坂の雑踏」という歌詞が登場する。アルバム『MUSIC MAN SHIP』(2004年11月3日発売、WPCL-10137)に収録。
- 「道玄坂で見た景色」BEGIN - 道玄坂に実在するライブハウス“B.Y.G”で録音されたアルバム『MUSIC FROM B.Y.G』(2002年3月21日発売、TECN-30740)に収録。
- 「two of us」CHAGE and ASKA - 道玄坂のマンションや街中を舞台にした失恋の歌。ASKAは「CHAGEの至上最高作品」と評価している。アルバム『NO DOUBT』(1999年8月25日発売、YCCR-00003)に収録。
- 「109(マルキュー)」AKB48 - 歌詞の中に道玄坂らしき坂を上る歌詞がある。
脚注
外部リンク
- 渋谷道玄坂 渋谷道玄坂商店街振興組合
- ↑ 1.0 1.1 通りの名前 渋谷区ウェブサイト、平成23年4月17日閲覧
- ↑ 『江戸名所図会』には「俚諺(りげん)に云う。大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年五月和田の一族滅亡す。其(その)残党此所(ここ)の窟内に隠れ住みて山賊を業とす。故に道玄坂と云うなり」としている。なお、引用中の「建暦三年」は1213年
- ↑ 内藤清成『天正日記』によるが、日記自体が偽書ともいわれる
- ↑ 2010年10月31日現在、住民基本台帳による。
- ↑ 5.0 5.1 「道玄坂」 横関英一 『江戸の坂 東京の坂(全)』 筑摩書房 平成22年11月10日発行
- ↑ 「渋谷の行人坂」 横関英一 『江戸の坂 東京の坂(全)』 筑摩書房 平成22年11月10日発行
- ↑ 同年2月2日、自治省告示第22号「住居表示が実施された件」
- ↑ 同年7月25日、郵政省告示第653号「郵便局を改称する件」