ヤン・ファン・エイク

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テンプレート:Infobox 芸術家 ヤン・ファン・エイク(テンプレート:Lang-nl-short、1395年頃 - 1441年)は、初期フランドル派のフランドル人画家。主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパ[1]で、もっとも重要な画家の一人と見なされている。わずかに残る記録から、ファン・エイクが1390年ごろの生まれで、おそらくマースエイク出身だと考えられている。ファン・エイクの幼少期についてはほとんど伝わっていないが、ブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた1425年ごろからの記録は比較的整理されて残っている。フィリップ3世の宮廷に出仕する以前は、エノー、ホラント、ゼーラントを支配していたバイエルン公ヨハン3世に仕えていた。当時のファン・エイクはすでに自身の工房を経営しており、ハーグのビネンホフ城の再装飾の仕事に従事していたこともある。1425年ごろにブルッヘへと移住したファン・エイクはフィリップ3世に認められ、宮廷画家、外交官としてその宮廷に仕えるようになった。その後、トゥルネー画家ギルドの上級メンバーに迎えられ、ロベルト・カンピンロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった、初期フランドル派を代表する画家たちと親交を持った。

生涯と画家としてのキャリア

幼少期と家族

ヤン・ファン・エイクの誕生日、生誕地はともに伝わっていない。その生涯における現存する最古の記録はバイエルン公ヨハン3世の宮廷のもので、1422年から1424年にかけての、一人から二人の助手を持つ近侍 (en:valet de chambre) の地位を兼任する宮廷画家である「優れた画家ヤン (Meyster Jan den malre )」に対する支払記録である[2]。このことから、ヤンの生年が遅くとも1395年以前であることがわかる。しかしながら、1433年に描かれたロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する自画像と考えられている『ターバンの男の肖像』の外貌からみて、ほとんどの美術史家が1395年よりも早い1390年に近い年に生まれたとしている。

ファイル:Meister 'G' des Turin-Mailänder Gebetbuches 001.jpg
『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵で、「作者 G」が描いた『洗礼者ヨハネの誕生』。この「作者 G」はヤン・ファン・エイクではないかと考えられている。

1500年代の終わりになってから、ファン・エイクの生誕地がリエージュの教会教区マースエイクであるという見解が発表された[3]。当時の通称には出身地を付与することが多く、「ファン・エイク」が「エイク(出身)の」を意味することから、現在でもこの説を採用する美術史家は多い。さらに娘のレフィーネが、ファン・エイクの死後にマースエイクで修道女になったこともこの説を裏付ける証拠とされている[4]

ネーデルラントで制作された未完の有名な装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』には複数の画家による挿絵が描かれているが、このうち「作者 G」として知られる画家はヤン・ファン・エイクだという説がある。もしこの推測が正しければ、『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵が、現存するファン・エイクの最初期の作品ということになる。『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵のほとんどが1904年の火災で焼失してしまい、現在残っているのは写真や複製画となっている。

ヤン・ファン・エイクの兄は、ヤンと同じく優れた画家だったフーベルト・ファン・エイクで、両名ともに同じ場所で生まれたと考えられている。ヤンのもっとも有名な作品である『ヘントの祭壇画』はファン・エイク兄弟の合作であり、1420年ごろに制作を開始したフーベルトが1426年に死去したため、ヤンが制作を引継いで1432年に完成させた作品である。もう一人の兄弟ランベルトもブルゴーニュ宮廷の記録に名前があり、同じく画家でヤンがブルッヘで経営していた工房を監督していたとされている[5]。さらに、ヤンよりも年少で北フランスで画家として活動していたバルテルミー・ファン・エイクも親族だったのではないかと考えられている。 テンプレート:-

円熟期とフィリップ3世からの寵愛

宮廷画家として仕えていたバイエルン公ヨハン3世が死去すると、ファン・エイクは1425年に、当時大きな権力と政治的影響力を持っていた、ヴァロア家の一員であるブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた。ファン・エイクは当初リールに居を構えたが、一年後にはブルッヘへと移り、1441年に死去するまで当地で暮らしている。ファン・エイクのフィリップ3世の宮廷での活動に関する、多くの文献が20世紀に出版された。フィリップ3世の代理としての外交官を務めることもあり、絵画制作自体が重要な外交任務となることもあった。しかしながら、フィリップ3世とイザベル・ド・ポルテュガルの婚儀をとりまとめる代表団の任務の一環として、1428年から1429年にイザベラの肖像画を2点描いたこと以外は、ファン・エイクが果たした外交上の業績はよく分かっていない[6]

フィリップ3世の宮廷画家、近侍 (en:valet de chambre) として、ヤン・ファン・エイクは並外れて多くの報酬を得ていた。宮廷に迎えられた当初から年収は非常に高かったうえに、その後数年間で二度もそれまでの倍の年収に引き上げられており、さらには特別手当が追加されることも多かった。当時の初期フランドル派の画家の大部分が、不特定多数からの個人的な絵画制作依頼によって生計を立てていた中、このような高年収を得ていたファン・エイクは画家たちのなかでも特別な地位を占めるようになった。ファン・エイクがフィリップ3世から非常に高く評価されていたことを示す記録が残っている。これは、1435年にフィリップ3世が財務担当官に対して、ファン・エイクへの報酬が未払いになっていることを叱責した記録で、もしファン・エイクがブルゴーニュ宮廷を去ってしまったなら、その「芸術と学識」の面で替わりになる人物はどこにもいないではないかというものである。さらにフィリップ3世はファン・エイクの子供の名付け親になっているほか、ファン・エイクが死去した際には未亡人に援助を行い、その数年後にファン・エイクの娘の一人が修道院に入るために必要な費用を出したりもしている。

作風

ヤン・ファン・エイクは宮廷画家としてだけではなく、市井からの個人的な絵画制作依頼も受けていた。それらの絵画の中でもっとも重要な作品が、富裕な商人ヨドクス・フィエトとその夫人エリザベト・ボルルートの依頼で描いた『ヘントの祭壇画』である。製作途中に死去した兄フーベルトの後を継ぎ、1432年ごろに完成したと考えられているこの多翼祭壇画は、「北ヨーロッパ写実主義の最終到達点」とまで言われている。イタリアでの初期ルネサンスの作品群とは異なり、ファン・エイクを始めとする初期フランドル派の画家たちが追求したのはギリシア・ローマ時代の理想化の再現ではなく、自然そのものを正確に観察して絵画に表現することだった[7]。また、ファン・エイクが行ったことで当時としては例外的だといえることが、署名と制作日付を自身の作品に書き入れることで、後にこの行為は絵画制作に不可欠なものだと見なされるようになっている。

評価と後世への影響

ファイル:Van Eyck - Arnolfini Portrait.jpg
アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
背景の壁面中央には「ヤン・ファン・エイクここにありき」という銘があり、さらにその下の丸い凸面鏡にはヤン・ファン・エイクの自画像と思われる人物が小さく映りこんでいる。

ヤン・ファン・エイクに関する最初期の重要な文献は、イタリア人人文学者、歴史家バルトロメオ・ファツィオ (en:Bartolomeo Facio) が1454年にジェノヴァで出版した『偉人伝』で、ファン・エイクは当時「第一級の画家」として紹介されている。さらにファツィオはファン・エイクを、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンジェンティーレ・ダ・ファブリアーノピサネロとともに、15世紀世紀前半で最高の芸術家であると位置づけている。イタリア人のファツィオが自国の画家と同様に、ネーデルラントの画家たちにも強い興味を示していたことは注目に値する。『偉人伝』には、ファン・エイクの現存していない作品にもわずかながら言及があり、著名なイタリア人のコレクションに所蔵されていたことなどが書かれているが、まったく別人の作品をファン・エイクの作品であるとして誤った同定をしている箇所もある[8]。ファツィオは、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物で、古典、とくに古代ローマの博物学者大プリニウスの美術論に精通していたと記している。古代ローマの詩人オウィディウスの著作『恋愛術』から引用した語句が『アルノルフィーニ夫妻像』のオリジナルの額(現存していない)に刻まれていたことからも古典に詳しかったことが伺え、さらに、多くの作品にラテン文字で書かれた銘が見られることも、ファン・エイクが十分な教育を受けた人物であったことを裏付けている。ヤン・ファン・エイクがラテン文字に詳しかったのは、フィリップ3世の命で諸外国へと旅した経験が役立っていた可能性もある。

ファイル:La Madone au Chanoine Van der Paele.jpg
『ファン・デル・パーレの聖母子』(1434年)
グルーニング美術館(ブルッヘ)
ヤン・ファン・エイクが後に埋葬される、聖ドナトゥス協同教会の司教座聖堂参事会員ヨリス・ファン・デル・パーレからの依頼で描かれた。
ヤン・ファン・エイクがブルッヘで活動を始めてからの10年間で、革新した油彩技法によって、その評価と絵画技術は格段の進展を見せた。ヤン・ファン・エイクの革命的ともいえる油彩技法の刷新は、16世紀のイタリア人画家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』によって伝説となり、ファン・エイクが油絵具を発明したといわれるようになった[9][10]
ファイル:Van Eyck brothers statue in Ghent.jpg
ヘントのシント・バーフ大聖堂前庭に建てられたフーベルト・ファン・エイクとヤン・ファン・エイクの像。

現存する歴史的文書から、ファン・エイクは生前から北ヨーロッパ中で絵画に革命を巻き起こした巨匠と見なされていたことが分かっている。ファン・エイクの絵画構成と手法は幾度となく模倣された。美術史における画家のモットーのうち、最初期にしてもっとも代表的ともいえる、ヤン・ファン・エイクの「我に能うる限り (ALS IK KAN )」が最初に見られるのは、1433年の作品で自画像ではないかと言われ、当時の自負心が浮かび上がるかのような『ターバンの男の肖像』である。1434年から1436年にかけてが、ヤン・ファン・エイクの最盛期とされ、この時期に『宰相ロランの聖母』、『ルッカの聖母』、『ファン・デル・パーレの聖母子』などの名作が描かれた。また、この時期にかなり年下のマルガレーテと結婚している。1437年の記録から、ファン・エイクがブルゴーニュ宮廷の最上流階級から非常に高い評価を得ていたことと、諸外国からも多くの制作依頼を受けていたことが伺える。 ファン・エイクは1441年7月にブルッヘで死去し、同地の聖ドナトゥス協同教会[11]に埋葬された。残された多くの未完成の作品は工房の職人たちが引継いで完成させている。現在でも、工房が完成させた作品であるとはいえ、初期フランドル派の絵画作品の好例であると見なされている作品が多い[12]。ブルゴーニュ公国のみならず諸外国にまでファン・エイクの名声が広まったのは、当時のブルゴーニュ公国が政治、芸術の中心地だったことも大きく影響していた。

出典、脚注

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参考文献

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  • Ainsworth, Maryan; Christiansen, Keith (eds). From Van Eyck to Bruegel Early Netherlandish Painting in The Metropolitan Museum of Art. New York: Metropolitan Museum of Art, 1998. ISBN 0-3000-8609-1
  • Bol, L.J. Jan Van Eyck. reprint: Barnes & Noble Art Series
  • Borchert, Till-Holger. Van Eyck. London: Taschen, 2008. ISBN 3-8228-5687-8
  • Borchert, Till-Holger ed. Age of Van Eyck: The Mediterranean World and Early Netherlandish Painting. Exh. cat. Groeningemuseum, Stedelijke Musea Brugge. Bruges: Luidon, 2002
  • Campbell, Lorne. The Fifteenth-Century Netherlandish Paintings. London, National Gallery. New Haven: Yale University Press, 1998. ISBN 0-300-07701-7
  • Foister, Susan, Sue Jones and Delphine Cool, eds. Investigating Jan van Eyck. Turnhout: Brepols, 2000.
  • Friedländer, Max J. Early Netherlandish Painting. Translated by Heinz Norden. Leiden: Praeger, 1967-76. AISN B0006BQGOW
  • Graham, Jenny. Inventing van Eyck: The remaking of an artist for the modern age. Oxford and New York: Berg, 2007
  • Harbison, Craig. Jan van Eyck: The Play of Realism. Reaktion Books, 1997. ISBN 0-9484-6279-5
  • Kemperdick, Stephan. The Early Portrait, from the Collection of the Prince of Liechtenstein and the Kunstmuseum Basel. Munich: Prestel, 2006. ISBN 3-7913-3598-7
  • Pächt, Otto. Van Eyck and the Founders of Early Netherlandish Painting. New York: Harvey Miller, 1994. ISBN 1-8725-0181-8
  • Panofsky, Erwin. Early Netherlandish Painting. London: Harper Collins, 1971. ISBN 0-06-430002-1
  • Smith, Jeffrey. The Northern Renaissance (Art and Ideas). London: Phaidon Press, 2004. ISBN 0-7148-3867-5

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邦語文献

  • 蜷川順子「神の肖像 : ヤン・ファン・エイクの《聖顔、あるいはイエスの肖像》」(蜷川順子編『人のイメージ : 共存のシミュラークル』(ありな書房、2011)ISBN 9784756611185
  • ノルベルト・シュナイダー(下村耕史訳)『ヤン・ファン・エイク《ヘントの祭壇画》 : 教会改革の提案』(三元社、新装版、2008)ISBN 9784883032327
  • 小林典子編『ヤン・ファン・エイク : 光と空気の絵画』(大阪大学出版会、2003)ISBN 4872590929
  • エドウィン・ホール(小佐野重利ほか訳)『アルノルフィーニの婚約 : 中世の結婚とファン・エイク作《アルノルフィーニ夫妻の肖像》の謎』(中央公論美術出版、2001)ISBN 4805503947
画集
  • 元木幸一編著『西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク』(小学館、2007)ISBN 409675112X
  • 前川誠郎編著『ファン・エイク全作品』(中央公論社、1980)

外部リンク

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テンプレート:Normdaten

  1. 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
  2. Châtelet, Albert, Early Dutch Painting, Painting in the northern Netherlands in the fifteenth century. pp.27 - 28, 1980, Montreux, Lausanne, ISBN 2-8826-0009-7
  3. ヘントの人文主義者マルクス・ファン・フェーネウィクとルークス・デ・ヘール・ヘントによる。
  4. Borchert (2008), p.8
  5. ヤン・ファン・エイク メトロポリタン美術館
  6. (see this copy [1] ).
  7. Gombrich, E.H., The Story of Art, pp.236 - 239. Phaidon, 1995.
  8. Renaissance Art Reconsidered, ed. Richardson, Carol M., Kim W. Woods, and Michael W. Franklin, p.187
  9. この伝説は『画家・彫刻家・建築家列伝』を底本とした、ドイツ人画家、詩人カレル・ヴァン・マンデルの著書『画家列伝(画家の書)』で、さらに広く流布した。実際には木材などの着色料として油絵具が使用されてきた歴史は古く、様々な美術に関する著作を残したベネディクト会修道士テオフィロスが1125年に書いた論文『諸技芸大要』に説明されている。現在では、初期フランドル派の第一世代の画家であるヤンとフーベルトのファン・エイク兄弟が精緻な板絵を制作するために油絵具を取り入れ、様々な油彩技法を試行、確立することによって、それまでにない目覚しい効果をあげることに成功したと見なされている。(Gombrich, E.H., The Story of Art, pp 236 - 239. Phaidon, 1995. ISBN 0 7148 3355 x)
  10. Borchert, pp.92 - 94
  11. フランス革命の余波で破壊されており、現在の聖ドナトゥス大聖堂は再建された建物である。
  12. Borchert, p.94