ホウ統

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[1](ほう とう、178年 - 213年 もしくは、179年 - 214年)は、中国後漢末期の武将、政治家。劉備に仕えた。士元(しげん)。道号鳳雛靖侯荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)の出身。「臥竜・臥龍(がりょう)」「伏竜・伏龍(ふくりょう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族弟は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。

生涯

若い頃はあまり身なりが冴えなかったことから評判を得なかったが、人物鑑定で有名な司馬徽に、その才能を認められたことでようやく名が高まった。後に郡に仕えて功曹となり、孫権配下の周瑜が南郡太守を領した後に病死すると、その遺骸を送り届ける役目を担っている。

その後、荊州を領有した劉備の下に転じ、耒陽(らいよう、現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任ぜられるものの、仕事を滞らせたために罷免される。これを聞いた魯粛は劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮も取り成したので再び劉備に召し抱えられ、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命される。

劉備陣営の次の方策として、西の益州を獲ることが考えられていたが、劉備は主が同族の劉璋であることを理由にこれを渋っていた。龐統はこれを諫めて、益州を獲ることを劉備に決心させた[2]。入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を守ることになった。

益州に入った当初、劉璋は劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開くなど無防備だったので、龐統はこの機会に劉璋を捕らえて、無用に戦う事無く益州を取るよう劉備に進言したが、劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていない。それはいかん」と答えこれを聞き入れなかった。その後、劉備軍は漢中張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、東で曹操と孫権が戦い、劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に軍団を移動させることを考えた。この時、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦白帝城まで退く下計の三計を提示し、その結果劉備は中計を採用した。

そこで劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋の武将である楊懐高沛を呼びつけて騙し討ちし、白水関を占領した(劉備の入蜀)。

劉備軍は、成都攻略の前に劉循張任が守る雒(らく)城を包囲したが、この包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。享年36[3]。劉備は龐統の死を大いに悲しみ、関内侯を追封し、靖侯諡号を贈った。

『三国志演義』での龐統

小説『三国志演義』においては、龐統の兄弟が諸葛亮の妹を娶り、義兄弟となっている。赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操を破るための献策を行なう。周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないと言うことが問題となる。そこで龐統は連環の計と呼ばれる策を周瑜に勧める。龐統自身が周瑜の陣営に偵察にやって来た蒋幹を、うまく欺いて曹操の軍営に潜り込み曹操と面会して、北方人の弱点である船酔い対策として、船同士を鎖で繋げることを進言したのである。このことにより、火がついても曹操軍の軍船は逃げられないようになり、劉備・孫権の連合軍による火攻めで曹操軍は大敗したということになっている。また、曹操の臣下となっていた親友の徐庶が火計に巻き込まれないように、別方面へ派遣されるようにし向ける策を授けている。

その後、周瑜の葬儀に参列した諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われる。彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と歯に衣着せぬ言動から疎まれてしまう。次に龐統は劉備に面会するが、劉備はその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、閑職の地方県令を宛がう。すると龐統は1ヶ月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられるが、劉備から派遣された張飛が詰問したところ、溜まっていた1ヶ月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。これによって龐統はその才能を劉備に認められ、さらに劉備は自身の行為を戒めることになっている。

またその死については、劉備の代わりに危険な間道を進み、気遣った劉備が貸し与えた白馬に乗ったため、「落鳳坡」という場所で劉備と間違えられて、張任配下の伏兵に射殺されたという描写になっている。

なお落鳳坡という地名は実在するが(現在の四川省徳陽市)、落鳳坡の石碑付近には龐統墓がある。

人物

『龐統伝』には次のような逸話がある。益州への侵攻の際、勝利に浮かれる劉備に対し「他人の国を侵略してそれを喜んでおられるとは仁者の戦ではありません」と、元々益州を取ることを勧めたのは龐統であるにもかかわらず、痛烈に劉備を批判した。劉備は怒って龐統に退席を命じたが、すぐに自分の非に気がつき戻るようにいった。龐統は何ごともなかったかのように席に戻ったが、劉備の方がかえって恐縮してしまい「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたのか」と聞いた。それに「君臣共に間違っておりました」と答えたので、笑い話になったという。

また龐統は人物評価を好んで行なったが、その場合はいつもその人物を過大に評価をしていた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ、善事を行なう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。

呉の重臣の陸績全琮顧邵らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の遺体を呉に送り届けた帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵に別れの際「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど深い交流があった。

『三国志』において龐統の伝は、法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると荀彧の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。

脚註

  1. 龐は广=まだれに龍
  2. 『九州春秋』によれば、龐統は劉備に「無理な手段で益州を奪っても、正しい方法で統治し、道義を持って彼らに報いて、事が定まった後に大国を与えれば、信義に背く事はないだろう」と語った。
  3. 世説新語』言語篇の劉孝標注では享年38に作る。なお雒の攻囲戦は213年から214年と越年して行なわれているため、龐統の没年がどちらなのかは不明である。

外部リンク