田宮二郎

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テンプレート:Mboxテンプレート:ActorActress 田宮 二郎(たみや じろう、1935年(昭和10年)8月25日 - 1978年(昭和53年)12月28日)は、日本俳優司会者。本名は柴田 吾郎(しばた ごろう)。

1960年代から1970年代にかけて活躍し、代表作は映画悪名』シリーズ、『白い巨塔』、クイズ番組クイズタイムショック』の名司会、テレビドラマ白い巨塔』など。身長180cm血液型B型

妻は元女優の藤由紀子。長男は俳優・テレビレポーター柴田光太郎。次男は俳優の田宮五郎。俳優の南川直は父方の従兄。

没後30年以上経つが、近年になり田宮主演の映画やドラマが相次いでDVD化され、ドラマのリメイクも行われている。

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生涯・来歴

出生からデビューと名声

大阪府大阪市北区出身。生後4日で住友財閥の大番頭だった父を失い、戦後まもなく母とも死別。そのため幼少から高校時代にかけては京都にて親族に育てられる。京都府立鴨沂高等学校を経て学習院大学政経学部経済学科卒業。学生時代は、シェイクスピア劇研究会に所属し、外交官志望だったが、大学在学中の1955年(昭和30年)、スポーツニッポン社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で優勝したことがきっかけで、大映演技研究所10期生として入社。同期には叶順子市田ひろみがいた。1956年(昭和31年)、「ミスタースマートコンテスト」で空手を披露し優勝[1]、ファッション雑誌『男子専科』の専属モデルに応募し合格、以後数年間は俳優業を兼ね活動する。1957年(昭和32年)に本名の「柴田吾郎」でデビュー。1959年(昭和34年)、大映社長の永田雅一がオーナーを兼務する大毎オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名。長らく端役が多かったが、1961年(昭和36年)に『女の勲章』(吉村公三郎監督、山崎豊子原作)の演技で注目を集めた。同年秋に勝新太郎と共演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作)にて勝の相棒「モートルの貞」役に抜擢され、人気スターの仲間入りを果たす。「モートルの貞」は『続悪名』(田中徳三監督、今東光原作)で絶命するが、その後シリーズ化が決定、田宮は3作目から貞の弟「清次」を演じ「勝-田宮」コンビが復活、長きにわたる人気シリーズとなった。またこれらの演技が評価され、1961年(昭和36年)のエランドール新人賞を獲得した。

端整なルックスと、身長180cmでスリムでありながら筋肉質であることに加え、甘い二枚目から冷酷なエリート、ユーモラスな拳銃使い、ヤクザ、欲望のためなら手段を選ばない悪役までもこなす演技力から犬シリーズ黒シリーズなどにも主演、大映の看板俳優として活躍した。また若尾文子の相手役として名画を多く残した。1965年(昭和40年)に『黒の爆走』『黒の超特急』などで共演した藤由紀子と結婚。1966年(昭和41年)、『白い巨塔』(山本薩夫監督、山崎豊子原作、大映作品)で財前五郎役を演じたことで、その名声は決定的なものになり、「昭和のクールガイ」と呼ばれた。同じ大映に所属していたビッグスター市川雷蔵とは一度も共演していない。理由は社長・永田雅一の方針によるものと言われている。

映画界追放

1968年(昭和43年)、映画『不信のとき』(今井正監督、有吉佐和子原作、大映作品)の宣伝ポスター(原案)において、主役(130シーン中94シーンに出演)の田宮の名が4番手扱いになっていた。その序列は、若尾文子(大映の看板女優)がアタマ、2番目が加賀まりこ松竹専属の女優、田宮より年下でありキャリアも後輩)、トメ(最後)が岡田茉莉子東宝や松竹で活躍後、当時は独立系の映画を中心に出演)で、田宮はトメ前となっていた。いくつもの主演シリーズを持っていた田宮は誰が見ても大映現代劇のトップ男優であり、彼にとってこの序列は譲れない大問題であった。

田宮は撮影所長に抗議したが、「この作品は女性映画として売りたいからこうなった。私の首にかけてもこの序列を変えることはない」と断られ、その場で副社長の永田秀雅(永田雅一の息子)に電話。すると「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され再び却下されたことからフィクサーとさえ言われる永田雅一に対抗するためか、右翼許斐氏利を伴い、永田雅一と直談判する。すると「主役のお前がアタマに書かれるのが当たり前や」となった。しかし「首をかけてもと撮影所長に言われたのだから、俳優の私が辞める(か所長が辞める)しかない」と田宮が言うに及び、雅一は「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。お前は横綱大関クラスの役者だと思っているんだろうが、まだ三役クラスの役者だ。人事に口を出すな」と憤慨。結果的に刷り直したポスターの序列は希望通り田宮がトップとなったが、雅一は田宮を一方的に解雇。ただでさえスター不足で経営難の大映はますます屋台骨が傾くことになった。記者会見では記者から「田宮を辞めさせて興行的に困らないか」との声が社長に飛んだ。しかし永田は「失礼な、それほどの大物じゃない」と反論、さらに五社協定を持ち出し、他社の映画にもテレビドラマにも田宮を使わないように通達した。

テレビ界進出と復活

完全に干されてしまった田宮は、家族を養うために舞台俳優・司会者・歌手として活動し、片やナイトクラブキャバレー回りなどの地方巡業もしていた。1969年(昭和44年)1月9日からは、NET(現・テレビ朝日)系列で放送が始まったクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術と的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。また同年、東京12チャンネルの音楽番組『田宮二郎ショー』の司会も務めた。映画俳優としての仕事ができず、このようなテレビの仕事をすることは、この時代の映画人にとって不本意とされていたが、当時のテレビの家庭普及率はすでにほぼ100%に近く、カラーテレビの普及も進んでいた頃で、他の映画俳優たちのテレビへの出演も珍しくなくなる時期でもあり、田宮の司会姿は視聴者たちの記憶に長く残ることとなり、結果として田宮の名声を保つことにつながった。

1969年(昭和44年)6月で大映との契約が切れたことにより、映画『日本暗殺秘録』に出演して、映画界へもカムバックを果たした。苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、永田雅一に啖呵を切るまでになっていた。そこで、1971年(昭和46年)に夫人を社長に据え立ち上げた自身の個人プロダクション「田宮企画」で『3000キロの罠』を製作・主演をしたが、ヒット作とはならなかった。一方の大映は1971年(昭和46年)に倒産。それをきっかけにすでに斜陽であった日本映画の観客動員数はさらに大きく落ち込み、今に続くテレビ時代となる。

1972年(昭和47年)にはTBS系ドラマ『知らない同志』でテレビドラマへ本格進出。その後も『白い影』『白い滑走路』などの白いシリーズや、山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、ドラマ界でも花形スターの座を獲得。その頃になると、自身を「日本のハワード・ヒューズになる」と公言しはじめ、ビジネスに強い興味を持ち、政財界とも接触を持つようになって、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗。1977年(昭和52年)には日英合作映画『イエロー・ドッグ』(松竹)の製作・主演も行ったが不入りに終わり、多額の借金を抱えてしまう。そして次第に精神を病み、同年3月には精神科医の斎藤茂太から躁鬱病と診断された。しかし、田宮自身は病気を認めようとせず、治療の薬も拒否したため夫人は飲んでもらおうと必死になったという。また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、髪についても悩んでいたという。

『白い巨塔』

1977年(昭和52年)冬、TBSより田宮のキャスティング権を得たフジテレビから企画を求められた田宮は、原作の途中までしか映画化されていなかった小説『白い巨塔』のドラマ化を強く希望した。これは3度目の提案であった(1度目は1969年(昭和44年)、2度目はその数年後にドラマ化の企画をテレビ局に持ち込んだ経緯があったが、最初は五社協定により、2度目はスポンサーの了承が出なかったために実現しなかった)。映画『白い巨塔』で主演として財前五郎を演じて以来、田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、財前五郎を演じるのは自分しかいない、原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていた。かつて映画化の際には原作の財前の年齢設定よりずっと若かった田宮も、この時にはほぼ同じ年齢であり、機も熟していた。田宮は原作者・山崎豊子に直接願い入れ、快諾を得て1977年(昭和52年)11月にはドラマ化が決定した。

撮影のさなかに多額の債務・躁鬱病との闘い

1977年(昭和52年)12月に入ると、躁状態に入った田宮はあれほど入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始め、多額の債務を抱えてしまう。妻は弁護士と協議の上、偽装離婚することにより財産を守ったほどである。田宮の事業熱が収まらないまま、ドラマ『白い巨塔』1978年(昭和53年)3月26日撮影開始。ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨み、6月3日には第1話の放送が視聴率18.6%と好調にスタートした。一方で私生活は荒れ、執拗な債権取立ての中で、妻に不動産などの書類の引渡しを求めて激しく言い争うようになっていた。ドラマ撮影現場でも次第に彼の不遜な態度に対して不安が広がり、スタッフがその火消しに躍起になったという。さらには「ウラン(一説には石油だとも言われている)の採掘権を取得した」と主張して突如トンガへと一週間出かけ、あわや撮影中止になりかけることもあった。

第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、田宮は7月29日ロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転し、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前の遺書も自らが書き、それを台本に加えさせた。さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという[2]

この時期の田宮に関しての奇行記事が女性週刊誌などに都市伝説として複数掲載されていた。一つはいわゆるM資金詐欺に騙され、巨額の借金を負ったことがその後の自殺の一つの要因であるという説。もう一つは、現実と役柄の境界が不明瞭となり、航空機にて急病人が出て乗務員が医師を捜すと、たまたま同乗していた田宮が「医師の財前だが」と名乗り出たというもの。また、自宅を訪れた芸能記者に対し、電話機を指差しながら「この電話はCIAと直に繋がっているのですよ」と述べたという話もある。ただし息子の柴田光太郎は2009年(平成21年)、『スーパーモーニング』(テレビ朝日)に出演した際に金銭問題を含めた醜聞の内容の大半を否定している。

ドラマの終わりと共に

ドラマ撮影の間、9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を1978年(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。病状が改善されないこともあり、自ら申し出たもので、司会者は山口崇へ引き継がれた。『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていたという。

衝撃の死

ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年(昭和53年)12月28日昼過ぎ、家族と別居し1人で住んでいた港区元麻布の自宅で起床した田宮は付き人に赤坂へ仕出し弁当を取りに行くよう命じたあと猟銃自殺を遂げた。テンプレート:没年齢

残された遺書は妻・息子達・二児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・奈良岡朋子鬼沢慶一宛の8通あったとされている。そのうち妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉と共に、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ「病気で倒れたと思って諦めて欲しい」と書かれていた[3]。次男の田宮五郎へは、当時から俳優を志していた彼に「俳優になるなら人間を知ってから」との言葉を生前に遺していた。

この田宮の自殺は、足の指で猟銃用の散弾銃の引金を操作して胸を撃ち抜いたその方法もあいまって、大きな衝撃をもって報道された。田宮も映画化された際に出演した小説『華麗なる一族』(山崎豊子原作)において万俵鉄平が猟銃自殺をする場面があり、山崎は田宮の死を電話で知るとすぐに「猟銃でしょう」と悟ったという。映画『華麗なる一族』では田宮が望んだ万俵鉄平役がかなわず、試写会の後で「僕ならもっとうまく猟銃自殺をやれるのに」と話していた。また、生前より自宅の居間で妻を前に「こうすれば死ねるんだ」と猟銃を抱き抱え足の指を引き金に掛ける真似をしていたことがあった。

この報道渦中での放映となったドラマ『白い巨塔』残り2話は皮肉にもさらなる注目を集めることとなり、視聴率は上昇して最終話は31.4%を記録。結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功を収めることとなった。

マスコミの報道の中、弔問には伴淳三郎美輪明宏萬屋錦之介草笛光子淡路恵子中村玉緒山本學小沢栄太郎高橋長英三田佳子八千草薫西城秀樹夏樹陽子若尾文子中野良子竹下景子片平なぎさ松原智恵子丘みつ子石浜朗松坂慶子らが駆けつけた。葬儀委員長は曾我廼家明蝶が務め、勝新太郎が弔辞を読み上げた。またドラマ『白い巨塔』で花森ケイ子を演じて田宮と共演した太地喜和子は田宮の遺影に向かって「あんた、ばかねえ」と言い自殺を嘆き、勝はマスコミに対し「さぞ背伸びして、どれほど苦しんだか」と田宮の胸の内を代弁した。

戒名は「清光院法誉顕映究吾居士」。墓地の所在は柴田家代々の墓地。生まれ故郷である京都の法然院にある。

逸話

  • 『悪名』の配役決定後、田中監督は田宮と連絡がつかなかった。実は、田宮は端役ばかりの役どころに悩み、映画界を引退し実業の道に進むつもりでいた。クランク・イン1週間前になってようやく大映京都撮影所へやって来た田宮は、出演を断るつもりでその旨を伝えたという。しかし、スタッフの説得で田宮は思い直し、映画の完成に至った[4]
  • 来日したマーロン・ブランドに会っている[5]
  • 俳優としてはクールでアクの強い役を演じることが多かったが、『クイズタイムショック』をはじめとするテレビ番組の司会では、明るく軽妙で親しみやすいトーク、なおかつ折り目正しく理知的な司会ぶりが多くの視聴者から支持された。特に『タイムショック』では、番組冒頭とクイズ出題の際の決め台詞「ターイムショック!!」とカメラを指さすポーズが広く知られ、収録では極度の緊張状態にある一般出場者にリラックスしてクイズに臨んでもらえるよう、司会者として常に細やかな気配りと思いやりを忘れなかったという。
  • TBS「8時だョ!全員集合」(1977年2月26日・第361回放送分)の学校コント内で頭がいい生徒役としてゲスト出演をした際、いかりや長介に「クイズタイムショック」風で「英語で25は?」「フランス語で25は?」「ロシア語で25は?」「中国語で25は?」「スペイン語で25は?」とタイムショック張りに連続して出題された問題に次々と正解した後、「ターイムショック!!」と決めセリフを発したり、志村けんの「○○いかがっすかぁ〜」のネタを用いて、志村と共に「タイムショックいかがですかぁ〜」のギャグを披露したりと、タイムショックを意識したネタを連発した。
  • 日本酒「大関」のCMに永く出演していたが、田宮本人は酒がほとんど飲めなかった為、収録では水を飲んでの演技だった。
  • 趣味は麻雀クレー射撃。愛用の銃が自殺に使用された。
  • 空手初段、また英語が堪能。

主な出演作品

映画

大映専属時代

独立以後

テレビドラマ

教養・バラエティ番組

舞台・ミュージカル

CM

ラジオ

音楽作品

シングルレコード

  • 青い犬のブルース(1967年) - 大映レコード・・・『勝負犬』主題歌
  • パパの子守唄/レッツ・ゴー・トゥ・ダンス・マイ・ペイビー(1969年) - ビクター
  • 弱気だぜ/愛して別れたあとで(1971年5月)
  • 落葉の別れ/深夜のRoute 246(1975年) - ビクター
  • パパの子守唄/男の扉(1975年8月) - コロムビア
  • たそがれの都会(まち)/「白い巨塔」メインテーマ(インスト)(1978年) - ポリドール・・・「白い巨塔」テーマ曲(番組内では使用されず)

脚注・出典

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関連書籍

  • 回想伝記に、升本喜年『田宮二郎、壮絶! いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』(清流出版2007年(平成19年)。著者は仕事仲間であった(かつて松竹で映画・テレビプロデューサーを務め、1972年(昭和47年)の映画『人生劇場』、1976年(昭和51年)のテレビドラマ『白い秘密』ほか、田宮出演作品の企画・製作を通じ深い親交があった)。

関連人物・項目

  • 児玉清 - 学習院大の同期であり、ドラマ『白い巨塔』で共演。俳優でありテレビ司会者としても活躍するなど田宮との共通点も多い。
  • 山本陽子
  • 木枯し紋次郎 - 作者の笹沢左保は田宮をイメージして原作を書いたという。
  • 藤島泰輔 - 学習院大学の先輩。美輪明宏を紹介される。

外部リンク

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  1. この模様が当時「NHK週間ニュース」(土、22:25 - 22:45)で放映されNHKアーカイブスに保存されている。また、爆笑問題の探検バクモン2012年6月6日放送分にてその映像が流された。
  2. 田宮は白布の下で泣いていたと伝える人もいる。壮絶! いざ帰りなん P392より。
  3. 田宮二郎 邦画礼賛 山田風太郎著作、人間臨終図鑑が基となっている
  4. 『日本映画監督列伝 田中徳三』(衛星劇場)より。
  5. 「スタアの40年 平凡 週刊平凡 秘蔵写真集」(マガジンハウス刊)より。
  6. TBSラジオ1968年10月番組表 ラジオ東京スピリッツ参照