本覚
テンプレート:Sidebar 本覚(ほんがく)とは、本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。
主に天台宗を中心として仏教界全体に広まった思想と考えられ、今日では本覚思想、天台本覚思想とも称されている。
概要
本覚とは、「本来の覚性」の意で、一切の衆生に本来的に具有されている悟りの智慧を意味する。如来蔵や仏性をさとりの面から説明したものとも考えられる。大意としては、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、人間はもともと仏性を具えているということである。
用語としては『金剛三昧経』などに見られるが、後代の論書のように精緻な理論付けはない。 テンプレート:Quotation
理論付けとなる仏典としては、真諦訳とされる『大乗起信論』の用例が基本的なものである。そこでは、現実における迷いの状態である「不覚」(ふかく)と、修行の進展によって諸々の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的にあらわになる「始覚」(しかく)と相関して説かれている。迷いの世界にいながら悟りの智慧のはたらきが芽生えてくる過程の中で、そのような智慧のより根源的なありかたとしての本覚という観念の存在が考えられた。これは唯識思想における阿頼耶識の種子(しゆうじ)の本有(ほんぬ)・始有の考えかたから発想されたと考えられ、われわれの日常心の根源的なありかたを説明する術語である。
日本の本覚思想では、心の絶対的なあり方(心真如)と同じと考えられ、「本覚・真如」と並べることもある。
本覚思想と日本仏教
上述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。
しかし、この本覚思想は、時代を経ると後々に他の教理と関連付けられ、新たな解釈を生むことになる。すなわち、人間は誰もが悟っているのだから修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった。これは、最澄撰である(偽撰との説もある)『末法燈明記』の「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」がよく引用されるようになったことに由来すると考えられている。
鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が天台本覚思想を否定することによって成立したという見方がごく近年になって、新奇な注目を浴びるようになった。しかし、これは、伝統的見方ではない。これらは、主にいわゆる奈良仏教学派よりの鎌倉仏教への遅すぎた反撃ともいえるものである。[1]。伝統的には、鎌倉仏教は天台本覚思想の発展とする考え方であり、従来から、島地大等や宇井伯寿らすぐれた仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている[1]。
本覚思想と日蓮宗
鎌倉時代中期、浄土宗系の著しい発展のなか、当時の比叡山は本覚思想の教えがさかんで、その教義をもって念仏など新興の仏教運動に対する弾圧をくりかえした(この項資料必要。一般には、浄土教に本覚思想に上に成り立っていると解される)が、(したがって以下の記述のように、この土台で、浄土教と対立したのではないとする見方が大半である)日蓮は、天台教学のなかに広まりつつあった浄土教との妥協に反発し、新しい法華信仰をもって浄土系と対抗し、末法の世において人びとを救う天台復興を決意したといわれる[2]。
日蓮を本仏とする宗派では、これらの文献や経典などから「末法無戒」を説き、釈迦在世の細かい戒律などは末法の世では無益であり何の役にも立たない、とする。したがって、修行せずとも題目を唱えることが受持即持戒である、とする宗派をも派生することになった。
ただしこの文章(文脈)では、日蓮が「名字即菩提」などと、「名字」の語義に注目し「煩悩則菩提」などと同じく、「名字即(初めて正法を聞いて一切の法はみな仏説であると覚る位)」による転換を指し示したもので、単なる戒律を否定したものではない、あるいは「末法無戒」とは釈尊の法や戒律が末法では通用しないので、本仏である日蓮が明かした金剛宝器戒こそが末法に於ける戒律である、等々さまざまな説を生むきっかけとなった。
本覚思想と邪教
異教の教えとされた真言宗系の立川流や天台宗系の玄旨帰命壇も、タントラ的な性交を以って即身成仏を体現するといわれる。そのため一般的には邪教として危険視されたが、この本覚思想の影響を少なからず受けているという指摘がされている。特に立川流は『理趣経』に説かれる自性清浄(経本では如来蔵の仏性や菩提心を指すが、これを一種の「本覚思想」と見ることもできる)がベースとなっている点を注目すべきであろう[注釈 1]。
ただし、真言宗の異端に由来した淫靡な宗派を『本覚思想』と結びつけたのは、近代仏教学の過渡期における論調から来る一部の仏教学者の説であり、真言宗の『大悲胎蔵曼荼羅』における単なる名称の字義を曼荼羅の意味と誤解している。如来蔵の原語である「タタガター・ガルバ」の意味である「胎蔵」を、仏教語ではない「胎盤や子宮」と直訳し混同して、それに無理に結びつける論理であり、正しい『本覚』の理解とはいえないとされ、ゆえに多くの初心の仏教学徒らも、現在もまだ真の本覚の意味を誤解し、逸脱した理解が多い。これらの本覚についての誤った理解は、南北朝時代の真言宗文観派の淫靡宗教の勃興からであるとしてよいであろう(ゆえに邪教として徹底的に弾圧された)。一部の仏教学者の宗派意識によって、それらを故意に関連づけた説もある。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連文献
- 『天台本覚論 日本思想大系.9』 岩波書店、初版1973年
多田厚隆、大久保良順、田村芳朗、浅井圓道校注/新装版 「日本仏教の思想.続2」 同、1995年 - 田村芳朗 『本覚思想論』 <田村芳朗仏教学論集1>春秋社、1990年
- 袴谷憲昭 『本覚思想批判』 大蔵出版 1989年
- 大久保良峻 『天台教学と本覚思想』 法蔵館 1998年
- 栗田勇 『最澄と天台本覚思想-日本精神史序説』 作品社 1994年
- 浅井圓道編 『本覚思想の源流と展開 <法華経研究.11>』 平楽寺書店 1991年
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