輪王寺
輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。CM(後述)やウェブサイトでも『日光山 輪王寺』として宣伝している。
「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は広範囲に散在している。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
目次
歴史
日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。
輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されているが、当時の歴史書にそのような記録は見られない。下野国には当時、東国一の寺院と言われた下野薬師寺があり、早くから仏教文化の栄えた土地であったこと、また平安時代初期には当時の日本の中央政府が下野国二荒神(延喜式神名帳に拠ると下野国河内郡に座す)の国家への多大な貢献に報いていたことは六国史より容易に推察できるが、日光や勝道の文字は一切見られない。輪王寺の寺伝によれば、当寺の開創の様子は以下のとおりである。
天平神護2年(766年)、勝道と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりついたが、大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていた。そこへ、首から髑髏(どくろ)を下げた、異様な姿の神が現われ「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である」と名乗った。深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道ら一行は無事対岸へ渡ることができたという。現在、日光観光のシンボルでもある「神橋」(しんきょう)は「山菅蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれ、その伝承の場所に架かっている。深沙大王は「深沙大将」とも呼ばれ、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされ、神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っている。「2匹の大蛇」の話は実話ではなく伝説であるが、この伝説が日光山が古くから山岳信仰の聖地であったこと、日光山が近付きがたい場所であったことを投影しているものと推察される。
勝道は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた。紫の雲たなびく土地であったので、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と言ったが、後に「四本龍寺」(しほんりゅうじ)と改めたという。現在の輪王寺の本堂(三仏堂)は、大谷川からかなり離れた土地にあるが、四本龍寺の旧地にも観音堂と三重塔(いずれも国の重要文化財)が建っている。翌神護景雲元年(767年)、勝道は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀った。二荒山神社の始まりである。現在、「本宮神社」と呼ばれている社地がこれに当たる。なお、勝道がこの神を祀ったのは、延暦9年(790年)だとする説もある。
天応2年(782年)、勝道は日光の神体山である男体山(2,486メートル)の登頂に成功した。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んでこの山を二荒山(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かである。
延暦3年(784年)、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立した。これは、冬季の男体山遥拝所として造られたものと言われている。「立木観音」の通称で知られる中禅寺は現存しているが、当初は湖の北岸にあった堂宇が明治時代の山津波で押し流されたため、現在は湖の東岸に移転している。
創建以後、平安時代には真言宗宗祖の空海や天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)らの来山が伝えられる。円仁は嘉祥元年(848年)来山し、三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされ、この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始める(現存するこれらの堂は、いずれも近世の再建)。「常行堂」「法華堂」という同形同大の堂を2つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺や寛永寺にも同名の堂が建てられた。
鎌倉時代の日光山は幕府や関東地方の有力豪族の支援を受け隆盛した。男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰はこの頃に定着したようである。三山、三所権現、祭神(垂迹神)、三仏(本地仏)の対応関係は次のとおりである。
- 男体山(2,486メートル)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと)=千手観音
- 女峰山(2,464メートル)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと)=阿弥陀如来
- 太郎山(2,386メートル)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)=馬頭観音
以上のように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていたのであり、輪王寺本堂(三仏堂)に3体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
輪王寺は戦国時代の間に壬生綱房の謀略によって事実上壬生氏の傘下に入ることになる。
輪王寺は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したかどで寺領を没収され、一時衰退した。しかし、近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進んだ。元和3年(1617年)には徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた(現存の東照宮社殿はこの時のものではなく、20年ほど後に建て替えられたもの)。承応2年(1653年)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている。その翌年の明暦元年(1655年)には後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。親子による世襲ではないが宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身である。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。
だが、戊辰戦争の後に明治政府によって輪王寺の称号を没収されて、(明治2年(1869年))旧称の「満願寺」に戻される。さらに、追い討ちをかけるように輪王寺宮本坊が焼失した。だが、明治15年(1883年)に栃木県のとりなしによって輪王寺を正式の寺号とすることが許されたのである。
平成大修理
平成19年-平成30年まで三仏堂の大規模修理が行われている[1]。修理工事用の素屋根はスライド工法で設置され、三仏堂の実物大の絵が描かれている。平成23年4月29日から修理が公開されており、素屋根に付設された地上26メートルの見学通路から修理見学が出来る。修理見学には大人400円、子供200円の入場料が別途必要。工事施工は大林組。
境内
輪王寺の堂塔は1か所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在している。東照宮の南方の境内には本堂の三仏堂や寺務所があり、ここには本坊表門、護法天堂、相輪橖(そうりんとう)などがある。二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群があり、その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。勝道を祀る開山堂は東照宮北方、滝尾神社への参道の途中にある。このほか、神橋近くの二荒山神社本宮に隣接した四本龍寺の旧地には、観音堂と三重塔があり、少し離れて児玉堂がある。中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属している。
大猷院霊廟
文化財
※以下の一覧中の「重要文化財」は、文化財保護法第3章に基づき日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(「国の重要文化財」を指す)。
史跡
- 日光山内
建造物(輪王寺)
重要文化財(16棟)
- 本堂(三仏堂)
- (附 銅燈籠2基)
- 護法天堂
- 相輪橖(銅製)
- 本坊表門
- 開山堂
- (附 石燈籠1基)
- 常行堂
- 法華堂
- 常行堂法華堂渡廊
- 慈眼堂廟塔(石造五輪塔)(附 石柵、石造六天像、石几、石華瓶)
- 慈眼堂拝殿
- 慈眼堂経蔵
- 慈眼堂鐘楼
- 慈眼堂阿弥陀堂
- (慈眼堂の附 石燈籠15基、石多宝塔1基)
- 観音堂(旧四本龍寺所在) ※貞享2(1685)年建造
- 三重塔(旧四本龍寺所在)
- 児玉堂
- (附 石燈籠1基)
- 観音堂(香車堂) ※正徳3年(1713年)建造
- 行者堂
- 釈迦堂
- 釈迦堂表門
建造物(大猷院霊廟)
国宝
- 大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿(合1棟)(附 厨子1基)
重要文化財(21棟)
- 唐門
- 瑞垣
- 掖門
- 御供所
- 御供所渡廊
- 夜叉門(附 左右袖塀)
- 夜叉門左右回廊 2棟(附 潜門)
- 鐘楼
- 鼓楼
- 二天門(附 左右袖塀)
- 西浄
- 水屋
- 宝庫
- 仁王門(附 左右袖塀)
- 皇嘉門(附 左右袖塀)
- 銅包宝蔵
- 奥院宝塔(銅製)(附 銅製華瓶・燭台・香炉、石玉垣)
- 奥院鋳抜門(銅製)
- 奥院拝殿
- 大猷院霊廟別当所竜光院(附 玄関)
(以下は大猷院霊廟の「附」(つけたり)指定物件)
- 参道(仁王門以内)
- 石柵(仁王門前、二天門前、二天門夜叉門間両側、奥院参道脇、奥院宝塔・拝殿周囲)
- 銅燈籠66基
- 石燈籠249基
美術工芸品
- 国宝
- 大般涅槃経集解(だいはつねはんきょうしゅうげ)59巻
- 重要文化財
(絵画)
- 紙本著色東照権現像 8幅(附蒔絵箱入守袋 7箇)
- 板絵著色勝道上人像 2面(文保二年銘、正中二年銘)
- 板絵著色日光三所権現像 6面(正和二年銘ほか)
- 板絵著色役行者八大童子像 2面(うち1面元徳三年銘)
(彫刻)
- 木造千手観音立像(立木観音堂安置)
- 木造阿弥陀如来及四菩薩坐像(常行堂安置、五智宝冠阿弥陀如来)
- 木造天海坐像(護摩堂安置) 康音作 寛永17年(1640年)
- 銅造釈迦如来坐像 附:銅造天蓋(大猷院奥院宝塔安置) 康知作 承応2年(1653年)
(工芸品)
- 菊花双雀鏡
- 瑞花孔雀鏡
- 金銅小形密教法具 一具(火舎(かしゃ)1口、花瓶(けびょう)2口、六器6器、飲食器(おんじきき)1口、六器2口)
- 金銅大火舎香炉
- 金銅鰐口 永正二二年(四年)銘
- 行事壇皆具 一括(火舎1口、花瓶2口、六器6口、飲食器1口、金剛盤1面、五鈷鈴1口、五鈷杵1口、三鈷杵1口、独鈷杵1口、灑水器(しゃすいき)1口、塗香器(ずこうき)1口、磬・磬架1具、燈台2基、前机2基、脇机2基、礼盤1基)
- 線刻阿弥陀三尊十二光仏鏡像
- 鋳銅半肉千手観音像
- 鉄多宝塔
- 鉄錫杖
- 錫杖 願主秀海の銘あり
- 銅錫杖頭 正応元年銘
- 銅錫杖頭(雲文飾)
- 銅錫杖頭(鳳首飾)
- 銅磐 建保五年銘
- 斧
- 蒔絵手筥 安貞二年平助永施入
- 住ノ江蒔絵硯筥(伝天海所持)
- 舞楽 所用具 一括(明細は後出)
- 刺繍種子阿弥陀三尊掛幅
- 刺繍不動明王二童子像掛幅
- 太刀 無銘伝行平
(書跡典籍)
- 阿弥陀経(装飾経)
- 金字阿弥陀経
- 紺紙金字法華経 8巻
- 紺紙金泥阿弥陀経 桜町天皇宸翰
- 紺紙金泥般若心経 足利満兼筆
- 紙本金字一字宝塔法華経不軽品神力品残巻
- 般若心経疏・般若心経疏詒謀鈔
- 金剛般若集験記 上中下
- 四種相違略私記 巻上
- 大日経疏 自巻第一至第廿 20巻
- 定宗論
- 唐梵文字
- 破邪弁正記上下 2帖
- 法花玄義釈籤 10巻
- 常行堂声明譜
- 法華経化城喩品
- 刊本成唯識論述記 13巻
- 高麗版一切経 614冊
- 日光山滝尾建立草創日記
- 東照権現祝詞(伝春日局筆)
(考古資料)
- 銅鋺 延元元年銘
- 舞楽所用具
- 振桙 桙1本
- 陵王 袍1領、裲襠1領、指貫1腰、宛帯1条、面1面、牟子1頭、撥1本
- 賀殿 鳥兜6頭
- 迦陵頻 袍4領、袴4腰、鳥足5隻、羽根4組、銅拍子4対
- 安摩 蔵面2面
- 二ノ舞 面2面、牟子2頭、下笹2枝
- 陪臚 袍1領、裲襠1領、指貫4腰、宛帯6条、楯6面
- 蘇合 兜6頭
- 輪台 兜4頭
- 青海波 袍2領、下襲2領、平緒1条、平緒垂2条、太刀4口、兜2頭
- 採桑老 裾1腰、面1面、牟子1頭、石帯1条、薬袋1口、鳩杖1本
- 散手 指貫2腰、宛帯1条、面1頭、兜1頭、桙1本
- 太平楽 袍3領、袴4腰、挂甲4領、兜4頭、肩喰4対、師喰4箇、肩当4枚、籠手4双、*臑当4双、平緒2条、平緒垂3条、魚袋4佩、胡籙4腰、太刀2口、桙4本
- 打毬楽 袍4領、裲襠4領、指貫4腰、宛帯4条、毬杖4本、毬子1箇
- 還城楽 宛帯1条、面1頭、撥1本、木蛇1箇
- 抜頭 袍2領、裲襠1領、指貫1腰、宛帯1条、面1頭、撥1本
- 一鼓 一鼓1口
- 一曲 振鼓1口、奚婁鼓2口
- 退走禿 面6面
- 納蘇利 宛帯2条、面2頭、撥2本
- 胡蝶 袍4領、袴3腰、羽根4組
- 蘇利古 蔵面5面
- 新靺鞨 袍4領、唐冠(燕尾共)2頭、烏皮沓4枚、下鞘4口
- 貴徳 袍1領、裲襠1領、宛帯1条、面1面、兜1頭
- 狛桙 袍4領、裲襠2領、宛帯4条
- 胡徳楽 瓶子1口
- 林歌 袍4領、兜4頭
- 白浜 後参撥2本
- 地久 面6面
- 東遊 袍6領、指貫2領、切袴4腰、
- 童舞 袍8領、半臂3領、下襲5領、表袴1腰、忘緒4条、石帯8条、天冠8頭
- 蛮絵 袍12領、下襲4領、表袴6腰
- 走舞 袍5領
- 平舞 袍6領、半臂35領、下襲20領、表袴25腰、忘緒34条
- 赤色袍12領
- 縹色袍6領
- 赤大口27腰
- 石帯41条
- 平緒1条
- 平緒垂2条
- 冠4頭
- 纓13枚
- 緌13枚
- 鳥兜45頭
- 牟子6頭
- 手套13隻
- 踏懸88隻
- 襪69隻
- 糸鞋13隻
- 笏7握
- 太刀6口
- 鰭9枚
- 三鼓1口
- 附:黒漆長持9合 寛永13年の朱漆銘がある
栃木県指定文化財(建造物以外)
- 勝道上人首骨納塔
- 鉄造宝篋印塔(納経塔)<中宮祠>
- 木造慈覚大師坐像
- 木造薬師如来坐像
- 木造不動明王坐像
- 木造阿弥陀如来坐像
- 鎮護王院宮御木型
- 明暦元年朝鮮通信使関係資料
- 木造 仮面 附 付属品
- 木造四大明王像
- 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓
日光東照宮の関係
拝観について
- 4-10月 8:00~17:00 11-3月 8:00~16:00
- 拝観料 三仏堂400円 大猷院550円 宝物殿・逍遥園300円
CM
年末年始に関東地方のテレビ局でCMが放映される。CMソングは輪王寺オリジナルの『福来い囃子』が使われている(作詞も日光山 輪王寺名義)[2]。
脚注
参考文献
- 井上靖、佐和隆研監修、山本健吉、菅原信海著『古寺巡礼東国2 輪王寺』、淡交社、1981
- 中里昌念、柴田立史著、日光山輪王寺、栃木新聞社監修『日光山輪王寺 宝ものがたり』東京美術、1992
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』90号(日光東照宮、輪王寺ほか)、朝日新聞社、1998
- 『日本歴史地名大系 栃木県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 栃木県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 『栃木県の歴史散歩』山川出版社