弘治帝
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テンプレート:基礎情報 中国君主 弘治帝(こうちてい)は明朝の第10代皇帝。諱は祐樘(ゆうとう)、廟号は孝宗(こうそう)。日本では治世の元号から一般には弘治帝と称される。
生涯
成化帝の第3子として生まれる。母のテンプレート:仮リンクは広西省の少数民族の反乱鎮圧で捕虜となり、宮人として献上された。成化帝の寵妃万貴妃は嫉妬深い女性であり、彼女以外の妃が産んだ子をことごとく暗殺していたが、弘治帝は宦官により密かに育てられ成人した。
即位した弘治帝が始めに行った事は、成化帝が重用し、朝政に何ら貢献することなく高禄を与えられていた道士、僧の追放である。その首魁であった李牧省、僧継暁は投獄、後に死罪とした。
弘治帝は賢臣を登用し専売法の見直し、宦官・道士・僧の綱紀粛正、北のダヤン・ハーンに対する防衛体制の強化などの政策を実施、弛緩していた明朝の国勢を立て直した。一時期不老長寿を説く宦官を信任した事もあったが、まもなくその害に気付き粛清し、再び政務に励み、後世の史家より明中興の祖と称されている。
弘治18年(1505年)に崩御。泰陵(明の十三陵)に埋葬された。
宗室
后妃
- 孝康敬皇后
子
女
- 太康公主朱秀栄
登場する作品
- コミックス