イリンジバル
テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:基礎情報 中国君主 イリンジバル(モンゴル語:テンプレート:MongolUnicode Rinčinbal、テンプレート:Lang-bo rin chen dpal、テンプレート:Lang-zh Irinjibar、 1326年5月1日 - 1332年12月14日)は、モンゴル帝国(元)の第14代皇帝(大ハーン)。読みは、イリンジバル(中国語)、リンチンバル(モンゴル語)、リンチェンパル(チベット語)。
生涯
明宗コシラの次男。母バブサ(八不沙)はナイマン部の人で、コシラが即位以前、アルタイ山脈の西に亡命していたときに生まれた。コシラが不審な急死を遂げて弟の文宗トク・テムルが即位すると、鄜王に封ぜられた。
1332年旧暦8月にトク・テムルが病死したとき、トク・テムルには実子エル・テグスがいたが、トク・テムルはコシラの子を次代のハーンに立てるように遺言した[1]。
トク・テムルを擁立して独裁権力を握っていた中書右丞相エル・テムルはコシラを毒殺したと言われており、彼は皇后ブダシリにトク・テムルの皇子エル・テグスを擁立することを提案した[2]。ブダシリはエル・テムルの力が増すことを恐れて、トク・テムルの遺言に従ってコシラの子を擁立することを望んだ[3]。
長子のトゴン・テムルは都から遠く離れた広西に流されており、次子のイリンジバルが大ハーン擁立された。エル・テムルはイリンジバルを10月に即位させ、ブダシリが皇太后として後見した。同年12月、新帝イリンジバルはわずか43日の在位で急逝した[1][2][3]。
エル・テムルは改めてブダシリにエル・テグスの即位を要請したが、エル・テグスが幼いことを理由に再び固辞された[2]。既に13歳になって分別のつく年頃である長子のトゴン・テムルを即位させるのに難色を示したが[1]、最終的にトゴン・テムルが呼び戻された。
后妃
- 皇后:ダリエテミシ(答里也忒迷失) - コンギラト部出身。
元号
- 至順(1332年旧暦10月- 1332年旧暦12月)
脚注
参考文献
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』(講談社現代新書, 講談社, 1996年6月)
- 外山軍治「寧宗(元)」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1960年)
- C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1971年6月)