孺子嬰

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 孺子嬰(じゅし えい)は、前漢最後の皇太子。摂皇帝王莽傀儡として皇太子の位にとどめられ、帝位には即かなかったが、一般に「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。

生涯

広戚侯・劉顕の子。宣帝の玄孫に当たり、曾祖父は孝王・劉囂(宣帝の末子)、祖父は広戚煬侯・劉勲である。

元始5年(5年)12月に平帝が崩御すると[1]、翌居摂元年(6年)3月、「摂皇帝」となっていた王莽により劉嬰が数え2つで皇太子に立てられ、「孺子」と号した。「孺子」とは「こども」という意味で、表向きには成人後に即位することが予定されたが、それも王莽がまだ幼児の皇太子にかわる「摂皇帝」として朝政の万機を総覧するための方便に過ぎなかった。果たして居摂3年(8年)、王莽は劉嬰の摂政であることを否定するかのように「摂皇帝」の号を「仮皇帝」と改めた。同年、王莽は高祖の霊により禅譲を受けたとして皇帝に即位、国号をとすると、劉嬰を定安侯に封じた。

その新もあっけなく崩壊し、新末後漢初の内乱時代に入る。この時期、隴右[2]に割拠していた隗囂軍師である方望は、常日頃から漢朝復興を目指して活動していたが、隗囂の行動に不信感を抱いてその下を去った[3]更始3年(25年)1月、方望は弓林という人物を同志として誘った上で、定安侯劉嬰を長安から探し出し、これを皇帝として推戴した。劉嬰・方望らは兵卒数千人を率いて安定郡臨涇(現在の甘粛省鎮原県)に入城し、劉嬰は方望を丞相、弓林を大司馬にそれぞれ任命した。こうして実質は地方政権ながらも、劉嬰はついに皇帝となったのである。

しかし、王莽を滅ぼして長安を拠点としていた更始帝(劉玄)は、同様に漢の皇帝を称する劉嬰の存在を許さなかった。更始帝は配下の将軍である李松蘇茂劉祉らに劉嬰討伐を命じ、僅かの期間の内に劉嬰・方望・弓林は戦死した。劉嬰、享年21。

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年号

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  1. 『漢書』平帝紀注や、後に反乱した翟義の檄文によると、王莽が毒殺したのだという。
  2. 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。
  3. 詳細な事情は、隗囂または方望の記事を参照。