マイヤー・ランスキー
テンプレート:Infobox 犯罪者 テンプレート:Sister マイヤー・ランスキー(テンプレート:Lang-en, 1902年7月4日 - 1983年1月15日)はユダヤ系ロシア人のギャング。本名はマイェル・スホフラニスキ(Majer Suchowlański)。幼い頃からの友人であるラッキー・ルチアーノの右腕として活躍する。ルチアーノ帝国の財政顧問。ルチアーノとは強い絆で組織犯罪史上重要なパートナーシップを組んだ。身長は低く160前後だったという。調整役に徹することが多かったため地味な存在に見えるが、長年にわたってマフィアの重鎮として君臨した大物中の大物。だが大物過ぎたためアメリカ当局から睨まれ、イスラエルはいかなるユダヤ人にも市民権を与える帰還法の申請を、多額の献金を受けていたにも関わらず、認めなかった。
生涯
当時ロシア帝国領だったフロドナ(現在のベラルーシ、グロドノ)でポーランド系ユダヤ人の両親の間に生まれる。1911年、家族とともにアメリカに移住してニューヨークに定住した。 この時、ラッキー・ルチアーノと出会う。当時ユダヤ人の用心棒をやっていたルチアーノが、小柄だったランスキーに目を付けて自分を雇わせようとしたのが発端で、ランスキーはむしろ用心棒など要らないと突っぱねた。ルチアーノは、ランスキーが、体格で大きく上回る自分に対しても断固とした態度をとってきたことに驚いたと言う。以降無二の親友となる。また、1920年にはベンジャミン・シーゲルとも親交を持つ。
アーノルド・ロススタインの弟分で、彼の死後組織を継ぐ。カナダのサム・ブロンフマン・グループとニューヨークを結ぶ仲介人の役割を果たしていた。
1931年にルチアーノのコーサ・ノストラ支配に協力し、同じくユダヤ系の大物ギャング、ルイス・バカルターや弟分のシーゲルと共に「マーダー・インク」(殺人株式会社)と呼ばれる組織を設立。暗黒街のおける暗殺ビジネスを請け負う。
1930年代に毎年8月に競馬が開催されるサラトガスプリングにルチアーノ、フランク・コステロらギャング・ファミリーと行き、そこでカジノ経営のノウハウを覚えた。彼は非常に頭の切れるギャングで、ものの見方が幅広かった。教養もあった。賭博についても独自のプランを持っていた。
その後、1936年までにはフロリダ、ニューオリンズ、さらに1930年代後半にはアメリカ当局の手の届かないキューバにもカジノを作った。賭博場開設の許可を取るためキューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタに300万ドルを支払う取引をした。キューバでのギャンブル事業で成功した。他にも競馬場、私設馬券場、競馬通信社を乗っ取り、掛け率をコントロールして莫大な利益を得た。
1938年フランク・コステロとランスキーは25万ドルの秘密基金を作り、ニューヨーク州知事を得ようとしていたトーマス・E・デューイを支持した。彼は選挙資金としてその金を受け入れた。その年の選挙には敗れたが、それから二度と彼らの脅威にならなかったという。
友人のシーゲルがフラミンゴ建設の話を持ちかけてきたときに、他のボスたちに資金集めを頼むが断られる。はじめに興味を持ったのは、当時スロット・マシン王と呼ばれていたコステロぐらいだった。
キューバでのハバナ会議で議題がベンジャミン・シーゲルのことになったときフラミンゴの再オープンまで待ってやってくれとかばった。友人シーゲルのラスベガス進出失敗を擁護したが、1947年、シーゲルは犯罪組織によって抹殺された。
1959年1月にキューバでバティスタを追放したフィデル・カストロが政権を取り、カジノが閉鎖されたとき1700万ドルを損したという。その失敗から政治の不安定な海外よりアメリカ国内で合法的な賭博場を作ったほうが良いと考え、マフィアのラスベガス進出を推薦した。さらにランスキーたちマフィアの幹部たちは、マフィアがキューバから追い出されると「カストロを消した者には100万ドルの賞金を出す」といった。
第二次世界大戦直後には、ユダヤ人国家であるイスラエル建国のため、ユダヤ人地下組織に多数の武器を提供した。
ラスベガスでも大きな権力を誇った。ラスベガスではギャング同士が抗争を起こさないように仲裁役になっていた。ラスベガスでは彼の言葉がそのまま法律になったと言う。まわりは彼のことをミスター・ランスキーと敬意を払って呼んでいた。
ヴィト・ジェノヴェーゼが麻薬密輸を積極的に行なっていたとき、コステロと共に麻薬ビジネスには反対していた。麻薬ビジネスをダーティーな仕事と考えていた。
1960年代、麻薬密輸、売春業、恐喝、ホテル・ゴルフコースへの投資によって3億ドルを儲けたと言われる。1970年に脱税容疑を受けてイスラエルに逃亡したが、2年後国外追放されてアメリカに強制送還されたがまもなく釈放され、1976年に病気と老齢を理由に告訴は取り下げられた。このときアメリカ政府は中南米の一部の国にランスキーを入国させないように圧力をかけたという。
ランスキーの組織犯罪における立場は不明である。一部の本では、ランスキーをアメリカ組織犯罪の実質的なボスとしているが、ヴィンセント・テレサ(レイモンド・パトリアルカのニューイングランドの一家のナンバー3だった人物)の証言によれば、ランスキーはラスベガス等のギャンブルなどを通じて全米のコーサ・ノストラの組織に大儲けさせているが、ランスキーの立場はあくまでコーサ・ノストラの代理人としてのそれであり、代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている。
ギャングには珍しく数字に強く、経済学の研究書を読み、経済感覚に秀でていた。マネーロンダリングの創始者とも言われている。
後年はマイアミに住み、自分の投資したホテルの近くを散歩したりしていたという。1983年1月15日、4億ドル以上の財産を残して肺癌で死去した。
映画
その生涯は『モブスターズ』(1991年)、『ランスキー』(1999年)などの映画で取り上げられている。また、『ゴッドファーザーPARTII』に登場するユダヤ系ギャング・ハイマン・ロスはランスキーがモデルである。
なお、エルヴィス・プレスリー御用達の洋品店として名高いランスキー・ブラザーズはランスキーの甥の店である。