櫛引弓人

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櫛引 弓人(くしびき ゆみんど、1859年 - 1924年)は、日本の興行師博覧会における各種興行を取り扱う「ランカイ屋」と呼ばれる興行師の一人で、「博覧会キング」と呼ばれた。

経歴

青森県三戸郡五戸町に生まれる。慶應義塾入学後、1885年、渡米する。

1893年シカゴ万国博覧会で、日本庭園を作り、そこで日本娘による茶のサービスを行う。1896年アトランタに日本庭園と球戯場を作り、資金を作り、興行師としての基礎を固める。1897年には、映写機(ヴァイタスコープ)と映写技師をつれて日本に戻り、東京で初の映画の上映会を行う。1899年川上音二郎一座のアメリカ公演も彼の発案である。

その後、セントルイスシアトルの万国博覧会で辣腕をふるい、1910年日英博覧会では、在米邦人が出資して作った「ジャパン・ビューティフル」の総支配人を勤め、大きな富士山のジオラマの前に高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せた。

また、1915年には、チャールズ・ナイルズ、翌1916年にはアート・スミスと女性飛行士キャサリン・スティンソンを連れて日本に戻り、日本各地でアクロバティック飛行の興行を打った。テンプレート:Asbox