凌雲閣
テンプレート:建築物 テンプレート:Coor title dms 凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。12階建てだったので「浅草十二階」とも呼ばれた[1]。関東大震災で半壊し、解体された。
目次
概要
凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった [2]。また、凌雲閣株式会社が設立され、のちに社長として写真家で東京市議会議員であった江崎礼二が就任した [3]。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは東京電燈株式会社の技師であった藤岡市助と考えられる[4]。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した[5]。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。
展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた[6]。
1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ[7]。なお設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている[8]。
浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。
1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。地震発生当時頂上展望台付近には12 - 3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死したテンプレート:要出典。経営難から復旧が困難であったため、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている。
2012年10月23日に凌雲閣南側の映画館跡に松竹が建設する再開発ビルが、凌雲閣を再現した構造とする計画があることが報じられた。ただし街並み整備地区計画による36mの高さ制限があるため、当時の高さよりは低くなる見込みである[9]。
ちなみに凌雲閣解体後の1932年、浅草・雷門一丁目交差点に凌雲閣を模した「仁丹塔」という、森下仁丹の広告塔が完成、こちらもランドマークとして人々に親しまれていた。1942年に金属供出のため解体されたが戦後の1949年に再建。しかし、これも1986年7月10日に老朽化によって解体された。現在その跡地にはコンビニエンスストアのファミリーマートが立地しており、壁面に「仁丹塔跡」のプレートが設置されている([[[:テンプレート:座標URL]]35_42_41.4_N_139_47_30.4_E_region:JP-13_type:landmark&title=%E4%BB%81%E4%B8%B9%E5%A1%94%E8%B7%A1 位置])。
- Ryounkaku.jpg
崩壊した凌雲閣
- Ryounkaku destruction Great Kanto earthquake.jpg
徳永柳州「第一震十二階の倒壊」
- Ryounkaku before and after Great Kanto earthquake.JPG
震災前後の凌雲閣(絵はがき)
完成当時のデータ
- 開業日:1890年11月11日
- 高さ:173尺(約52m)
- 建坪:37坪(122.31m²)
- 設計:ウィリアム・K・バルトン(William K. Burton、イギリス人、お雇い外国人)
- 入場料:大人8銭、子供4銭
- 構造:10階まで煉瓦造り、11・12階は木造
文学、創作における凌雲閣
凌雲閣の登場する作品。
同時代の記憶や経験にもとづくもの
- 一握の砂(石川啄木)凌雲閣を詠んだ一首が収められている。
- 押絵と旅する男(江戸川乱歩)
- 浅草紅団(川端康成)
- 絵空事(久保田万太郎)
- 浅草の灯(浜本浩)
- 浅草公園凌雲閣登覧寿語六、凌雲閣機絵双六、浅草公園凌雲閣登覧寿語六 (歌川国貞 (3代目))
後世になってからのもの
- 舞踏病(島田荘司)
- 東京異聞(小野不由美)
- 菊坂ホテル(上村一夫)
- 「坊っちゃん」の時代 第三部(関川夏央/谷口ジロー)
- 幻影博覧会第壱話(冬目景)
- 蓬莱学園の冒険(遊演体)
- 花と怒濤(鈴木清順監督)
- 緋牡丹博徒・お竜参上(加藤泰監督)
大阪にあった凌雲閣
浅草凌雲閣竣工の前年の1889年、大阪・北野茶屋町の遊園地「有楽園」内に、凌雲閣(9階建て・高さ39m)が完成していた(檀重三から鷲尾宇兵衛へ譲渡[12])。「梅田東生涯学習ルーム体育館」(旧梅田東小学校跡地)の門前に、その碑が残る。
そのまた前年の1888年に近隣に作られた眺望閣(遊園地「有宝地」内の5階建て・高さ31mの六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の西洋式高層建築ともいわれるが、1904年に解体)と共に、「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれた[13]。
脚注
関連項目
- 児玉源太郎 - 凌雲閣で催された日露戦争展で、児玉をナポレオンに準えて語り合う2人の陸軍将校の傍に歩き寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁いた逸話がある。
- 江戸東京博物館 - 10分の1で復元された模型が常設展示されている。
- こちら葛飾区亀有公園前派出所 - アニメ第214話「十二階で逢いませう」で、凌雲閣に関するエピソードが製作されている。
- パイノパイノパイ(東京節) - 東京の名所の一つとして紹介されている。
- ポニータワー
外部リンク
- 国立科学博物館 地震資料室、関東大地震写真 - 震災により破壊された凌雲閣の写真が豊富。
- 浅草十二階計画 - 凌雲閣に関する明治・大正期の図版、文献資料。
- 浅草凌雲閣 明治23年10月27日時事新報『新聞集成明治編年史. 第7卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 凌雲閣 (大阪) 明治22年4月3日中外商業『新聞集成明治編年史. 第七卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 仮想プロジェクト 浅草凌雲閣を救え! - 鹿島建設