分部光庸

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分部 光庸(わけべ みつつね、享保19年(1734年) - 寛政2年(1790年))は、近江大溝藩の第7代藩主。分部家8代。

第6代藩主・分部光命の長男。母は今村氏。正室は大関増興の娘(慈法院)。子は分部光賓(長男)、誠照寺庸行(次男)、秋山清章(三男)、分部庸久(四男)、娘(安部信享正室)、娘(高木貞固室)、娘(高木貞固後室)、娘(花房職喬継室)。官位は従五位下、隼人正、若狭守。

1734年とも、1737年11月29日生まれとも言われている。大溝に生まれた。幼名は甚三郎。通称は隼人。1754年9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぐ。公家の接待役などを務めた。1785年3月10日、病を理由に長男の光賓に家督を譲って隠居・剃髪して静好と号した。1790年8月26日、または8月3日、または8月23日に江戸にて死去した。享年57。法号は自徳院殿静好義正大居士。墓所は東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院。

テンプレート:大溝藩主