スペンサー・コンプトン (初代ウィルミントン伯)
初代ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン(Spencer Compton, 1st Earl of Wilmington,1674年 - 1743年7月2日)は、イギリスのホイッグ党の政治家。議員としては1698年から1743年まで在職。1730年よりウィルミントン伯爵、王璽尚書。1742年から第一大蔵卿となったが、これは名目上のことであり、北部担当国務大臣(Secretary of State for the Northern Department)のジョン・カートレットが実権を握っていた。
ノーサンプトン伯爵ジェームズ・スペンサー・コンプトンの第3子として生まれ、セント・ポールズ・パブリックスクールからオクスフォード大学トリニティ・カレッジに進んだ。名誉革命の招聘者の1人でロンドン主教のヘンリー・コンプトンは叔父に当たる。
家は代々トーリー党であったが、兄ジョージとの個人的確執もあってホイッグ党に転じた。1698年に下院に初当選してから40年以上にわたりロバート・ウォルポールと基本的に協調路線を歩んだ。また、ジョージ1世在位の頃から皇太子(後のジョージ2世)と親睦が篤く、彼が即位するとすぐに政権を任せられた。
1727年、当時下院議長(Speaker of the House of Commons) であったコンプトンは、ジョージ2世即位に伴い一旦政権を担ったものの、議会への影響力はウォルポールに及ぶべくもなく、王室経費を議会に認めさせることができなかった。代わりにこれをやってのけたウォルポールが第一大蔵卿に返り咲き、以後しばらくウォルポール政権がつづくこととなった。
ウォルポール退陣に伴い第一大蔵卿となった1742年には既に健康を害しており、当時名望のあったカートレットが実質的指導者であった。翌1743年に世を去り、ヘンリー・ペラムが次の首相となった。ウィルミントン伯位は1代で消滅したが、ウィルミントンの名誉を称えてアメリカ植民地のノースカロライナ州、デラウェア州の都市にウィルミントンの名がつけられた。