ハノーファー王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年5月24日 (土) 14:40時点における125.15.57.174 (トーク)による版 (関連項目)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 過去の国 ハノーファー王国テンプレート:Llang)は、現在のドイツ北部、ニーダーザクセン州に存在した国家。

1692年にハノーファー公エルンスト・アウグスト選帝侯となってから1803年フランスに占領されるまでブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国(Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)として、及び1814年ウィーン会議によってドイツ連邦の構成国となってから1866年普墺戦争に敗れてプロイセン王国に併合されるまでハノーファー王国として存続した。以後は1946年までプロイセン王国の一州となっていた。元々はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国Herzogtum Braunschweig-Lüneburg)の一部であるカレンベルク侯領1432年 - 1803年)で、首都がハノーファーに置かれたため俗にこう呼ばれる。

歴史

神聖ローマ帝国領邦の一つであったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は、しばしばいくつもの公(侯)国に分割された。1432年ヴォルフェンビュッテル侯領から分割されたカレンベルク侯領も、そうした領邦の一つであった。カレンベルク侯位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル侯領に継承されるが、1635年にカレンベルク侯領はゲッティンゲン侯領と共に、再びヴォルフェンビュッテル侯領から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公国と呼ばれるようになった。

1692年、ハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となったことにより、その公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国、通称ハノーファー選帝侯国となった。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世はジョージ1世としてイギリス王に即位した(ハノーヴァー朝)。ドイツにおいても、リューネブルク侯領の継承(1705年)、スウェーデンからのブレーメンフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)の割譲(1719年大北方戦争の講和条約であるストックホルム条約)、と勢力を拡大していった。

1803年には、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体の一環としてオスナブリュック司教領(Bishopric of Osnabrück)を併合したものの、選帝侯国はフランスに占領され、1807年にはヴェストファーレン王国の一部となった。しかし1813年に選帝侯ゲオルク3世(イギリス王ジョージ3世)は領土を回復し、1815年ウィーン会議により王国に昇格した。これは王国となっていたヴュルテンベルク公国と地位を等しくするためだった。さらにウィーン会議でハノーファーは、リューネブルク侯領であったエルベ川右岸や東にあったいくつかの飛び地と引き換えに、プロイセン王国からヒルデスハイム司教領(Bishopric of Hildesheim)、東フリースラント、リンゲン伯領(The Lower County of Lingen)、及びミュンスター司教領(Bishopric of Münster)の北部を獲得した。

ハノーファーの王位継承規定はイギリスと異なっていたため(サリカ法典を採り、女子のハノーファー王位継承を認めていなかった)、イギリスとハノーファーの同君連合1837年ヴィクトリアがイギリス女王に即位したときに解消され、女王の叔父エルンスト・アウグストが即位した。このとき、イギリス的な自由主義国家体制も破棄されたために、これに抗議するグリム兄弟らによってゲッティンゲン七教授事件が起こされた。

1866年普墺戦争でハノーファー王国はオーストリア方に就いたため、敗戦後にプロイセンに併合されて州となった。第二次世界大戦後の1946年に、イギリスの占領下でオルデンブルクブラウンシュヴァイク、シャウムブルクと合併してニーダーザクセン州となり、ハノーファーの名前は国名としては消滅した。

歴代君主一覧

テンプレート:See also 年号は、在位期間を示す。

ハノーファー選帝侯

正式には「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、カレンベルク公、神聖ローマ帝国選帝侯」

1803年、ハノーファー選帝侯国はフランスに占領され、以後10年間ゲオルク3世の統治下にはなかった。しかし彼と家臣はロンドンで独自の外交を続けた。

1815年、フランスから解放。統治権を奪還。同年ドイツ連邦に参加。連邦議会の議席を得る。

ハノーファー国王

1837年イギリスで女王ヴィクトリアが即位すると、サリカ法典を採る王国はその叔父エルンスト・アウグストが継承し、同君連合は解消された。

1866年にハノーファー王国はプロイセン王国に併合され、ゲオルク5世と王太子エルンスト・アウグスト(2世)は廃位された。王太子の子エルンスト・アウグスト(3世)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇女との縁組により、同族の遠戚の死後空位となっていたブラウンシュヴァイク公国の継承が認められた。

ハノーファー州知事一覧

年号は、在任期間を示す。

関連項目