宗預

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宗 預(そう よ、? - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の武将、政治家。徳豔(とくえん)。南陽郡安衆(あんしゅう)県(河南省南陽市)の人。『三国志蜀書に伝がある。

生涯

建安年間(196年 - 219年)張飛に従い入蜀した。223年(建興元年)、丞相の諸葛亮に主簿に任じられ参軍右中郎将に昇進する。

諸葛亮没後、呉の孫権が蜀を攻めるのではないかと懸念して、巴丘に1万の兵を増員したため、蜀の側も白帝城の兵を増員し、呉蜀間に軍事的緊張が生じた。宗預は呉への使節となり呉蜀間の緊張を解き、孫権から鄧芝費禕に次ぐ評価を与えられた。

待中に昇進。尚書に移り、247年(延熙10年)屯騎校尉。この時60歳(概数か)で、初めて軍事に参与したことは礼に反するのではないかと鄧芝にたずねられたが、鄧芝こそ70代で兵権を返していないことを挙げそれに反論した。鄧芝は車騎将軍、江州総督の地位にあり、驕慢な性格で知られており、大将軍として蜀の実権を握っていた費禕にも遠慮されていたが、宗預だけは鄧芝に遠慮しなかった。

再び呉に使いしたとき、孫権は宗預に対し、お互い高齢で自分は衰退しているから、これが最後の別れになるだろうと宗預との別れを惜しみ、真珠を一石与えた。

将軍に昇進し、永安駐屯軍の指揮官となる。任地にて征西大将軍に任命され、関内侯の爵位を賜わる。258年(景耀元年)病により成都に召喚される。鎮軍大将軍となり、兗州刺史を兼任。諸葛瞻が政治を執るようになると、廖化に、諸葛瞻の元に共に行くことを勧められたが、お互い70代なのに、年下の者におもねることもないだろうと、これを拒否した。

264年(咸熙元年)、前年に蜀が魏に滅ぼされたため(蜀漢の滅亡)、廖化と共に洛陽に護送される途中で病死した。

参考文献

「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7テンプレート:Asboxテンプレート:Chinese-history-stub