ヘルマン・ロエスレル
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カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル(Karl Friedrich Hermann Roesler、1834年12月18日 - 1894年12月2日)はドイツの法学者・経済学者。明治の日本でお雇い外国人の一人として活動したドイツ人である。なおロェスラー、レースラー、また一部ではロエスエルとも表記される。
人物
1878年、外務省の公法顧問として訪日したが、一顧問にとどまらず、後に内閣顧問となり伊藤博文の信任を得て、大日本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活動した。1881年、明治政府がプロイセン流立憲主義に転換し(明治十四年の政変)、井上毅が憲法の草案を作成したが、その草案は多くロエスレルの討議、指導によるものだったとされる。彼の提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが受け入れられ、大日本帝国憲法となった。
彼の思想は保守的で国家の権限強化する方向にある一方で、法治国家と立憲主義の原則を重んじるものであった(これは、彼から深い薫陶を受けた井上毅の思想にも影響する)。彼が訪日を承諾した背景には、時のドイツ帝国宰相であるビスマルクの政治手法が余りにも非立憲的である事を批判したことでドイツ政府から睨まれたからだとも言われている(その後、オーストリアで余生を過ごしたのもこうした背景によるものであるという)。経済学者としてはアダム・スミス批判で知られている。
略史
- 1834年 フランケン地方テンプレート:仮リンクで誕生。
- 1878年 当時の駐独公使青木周蔵の周旋により、外務省の公報顧問として招聘される。
- 1881年~1887年 明治政府において大日本帝国憲法の作成および、商法草案の作成に携る。
- 1893年 帰国(ドイツではなく妻子のいるオーストリアへ)。
- 1894年 ボーツェンにて死去。