松平信順

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 信順(まつだいら のぶより)は、三河吉田藩の第4代藩主。松平伊豆守大河内松平家8代。

生涯

寛政5年(1793年)、松平信明の次男として江戸西丸下屋敷で生まれる。寛政9年(1797年)10月25日に嫡子となり、信順と名乗る。享和3年(1803年)9月22日、初めて将軍家斉・世子家慶に拝謁する。文化2年(1805年)12月16日、従五位下駿河守に叙任される。

文化14年(1817年)8月に父が病死し、10月16日に家督を相続する。同21日に伊豆守と改める。襲封直後には、国元の家臣に対して文武出精・質素節倹などを指示する「御直書」を発している。文政元年(1818年)8月24日、奏者番に就任する。文政8年(1825年)5月6日、寺社奉行に就任する。天保2年(1831年)5月25日に大坂城代に就任し、従四位下に叙される。天保5年(1834年)4月11日に京都所司代となり、侍従に任じられる。天保8年(1837年)2月に大坂大塩平八郎の乱が発生すると京都市中の警備を強め、朝廷への事件の報告や江戸・大坂間の連絡確保などに当った。その後江戸に召しだされて5月16日に老中に就任するが、8月6日に病を理由に辞任する。わずか3ヶ月で老中を辞任したのは同役の水野忠邦と意見が合わなかったためとも言われている。天保13年(1842年)12月13日に隠居して刑部大輔と改め、家督は嫡子信宝が相続した。天保15年(1844年)に小名木川屋敷で死去。享年52。

人物

学問を重んじ、父が招聘した大田錦城儒学を学んだ。吉田へ帰国した際には錦城を伴い藩校時習館で講義させ、自らも聴講した。また中山美石国学を学び、後に本居大平の門人となった。和歌にも通じており、本居春庭の和歌を集めた『春庭歌集』を編集したほか、信順自身が詠んだ和歌も多数残されている。

参考文献

  • 『豊橋市史』第2巻・第6巻


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