小松則幸
テンプレート:Infobox 小松 則幸(こまつ のりゆき、男性、1979年4月21日 - 2009年4月13日)は、日本のプロボクサー。大阪府寝屋川市出身、大阪府立枚方西高等学校卒業。第29代ならびに第34代OPBF東洋太平洋フライ級王者。入場曲は、TOM★CATの「TOUGH BOY」。
来歴
9月9日、エディタウンゼントジム所属でプロデビュー。岩本和宏(尼崎亀谷)に4R引き分け。
9月11日、OPBF東洋太平洋フライ級王座決定戦に挑戦。孫正五(韓国)に12R判定勝ちし王座獲得。フットワークとコンビネーションパンチのスピードは出色で、強打の韓国王者に勝利。ボクサー・タイプとしての新境地を拓いたかに見えた。しかしこの試合を最後に、足を止めて打ち合い、相打ちの右ショートパンチでKOを狙うスタイルに変化していく。
2月16日、フィリピンGABフライ級王者でOPBF同級1位の指名挑戦者ロリー・ルナス(フィリピン)に2RTKO勝ち。同王座初防衛成功。この時点でWBC世界フライ級12位、後にPABA同級王座も獲得する強豪に、初回は圧倒されながらも2Rに右アッパーから右クロスを決めてダウンを奪い、追撃をかけてレフェリーストップを呼び込む。劇的な逆転KO勝利であった。なお、ルナスはその後、石川県のカシミジム所属となり「ロリー松下」のリングネームで活動している。
5月5日、パノムデット・オーユタナコーン(タイ)に5RTKO勝ちし同王座2度目の防衛成功。タイ国同級王者の肩書きを持ちながら、日本での勝ち星がない相手との実力差は大きく、初回早々から右でダウンを奪い、5Rにラッシュをかけてレフェリーストップとなった。試合後のインタビューで、国内の同階級の強豪との対戦を希望する旨を語り、これがきっかけとなってトラッシュ中沼(国際)との対戦が実現する。
8月24日、トラッシュ中沼に12R判定勝ちし同王座3度目の防衛成功。この試合はCS局で生中継され、小松の試合が多くのボクシングファンの目に触れる初めての機会となったが、地元判定であると物議を醸した[1]。
2月15日、エドガー・ロドリゴ(フィリピン)に8R負傷判定で判定勝ちし同王座4度目の防衛。初回に鮮やかな左フックのカウンターを決めてダウンを奪うも、その後はやや苦戦した。
6月26日、小嶋武幸(横浜さくら)に10R負傷判定で判定勝ちし同王座5度目の防衛。序盤から左右のフックを決めて優位に立つも、小嶋の右ストレートを浴びて動きが止まる場面も。この時点でWBCフライ級3位の東洋太平洋王者としては、物足りない試合内容であった。
9月20日、トラッシュ中沼に12R判定負けし同王座を失う。結果は0-2であったが、激しいポイントの奪い合いが繰り広げられる大変な接戦であった。なお、日本ボクシングコミッション(以下、JBC)関西事務局は、ジャッジした北村信行の採点(中沼の勝ち)を不適切として、北村に10月4日から年内の出場停止を通達した。また、JBC東日本地区所属の福地勇治ジャッジは、若干の中沼優勢で推移した最終ラウンドに、本来ならばノックダウンまたはそれに準じる大差優勢となった時のみに用いる「10-8」の採点で中沼に2点のリードを与えた。もしこれが「10-9中沼」であったなら、判定結果は「0-1ドローで王者防衛成功」であったため、この採点は俗に言う「帳尻合わせ」ではないかと一部で論議を呼んだ。
1月29日、WBC世界フライ級王座挑戦。世界王者ポンサクレック・クラティンデーンジム(タイ)に5RTKO負けし王座奪取ならず。初回から前足のポジション取りで劣勢に立ち、ポンサクレックの右アッパーを端緒とする的確なコンビネーションの前に力及ばず、5Rに2度のダウンを奪われたあと、果敢に立ったもののパンチによる負傷箇所からの出血多量でTKOを宣告される。初の世界挑戦は敗北に終わった。
11月22日、トリプルタイトル戦(大阪府立体育会館)でフェデリコ・カツバイ(フィリピン)とOPBF東洋太平洋フライ級王座決定戦を争う。相手の減点もあり、スプリットデシジョンでの判定勝ち、タイトル獲得。3Rには小松がサウスポーとの対戦時に得意とする左フックのカウンターを決め、タフなカツバイをダウン寸前に追い込むなど好調だったが、中盤以降急激に失速。かろうじて逃げ切ったものの、以後に不安を抱かせる試合内容だった。試合後のリングインタビューで当時の日本王者内藤大助(宮田)に王座統一戦を要求した。
6月27日、史上初のOPBF・日本フライ級王座統一戦(後楽園ホール)[2]。内藤大助に6RKO負けを喫する。初回から内藤の左フックで腰を落とし、劣勢のラウンドを重ねながら脅威的なタフネスを見せていたが、6Rに内藤の右フックを浴びてダウン。立ち上がったが追撃を受けてTKOを宣せられた。世界戦以外では初のKO負けであった。
12月10日、エディタウンゼントジムからグリーンツダボクシングクラブへ移籍。
2月12日、尼崎アルカイックホールにて、元OPBF東洋太平洋フライ級王者ワンミーチョーク・シンワンチャー(タイ)と再起戦を行い[3]、8RTKO勝ち。序盤からラフなワンミーチョークの右フックを受け苦戦、3Rにはこのパンチで軽いダウンも喫したが、4Rから逆襲。5Rにダウンを奪い返すと、8Rにボディブローで倒し、移籍初戦をKOで飾った。
7月2日、後楽園ホールにて日本フライ級王者の吉田健司(笹崎)に挑戦。乱戦の末6R負傷判定負け、王座奪取ならず。
8月25日、フィリピン・パシッグのSMモール・オブ・エイジアにて、フィリピンPBFスーパーフライ級王者のロイ・ドリゲスと対戦。初回に偶然のバッティングで左目上から出血、試合続行不可能となり、ドクターストップによる1R負傷引分となる。
1月5日、大阪府立体育会館第二競技場にてタイ国ライトフライ級王者のスリヤ・クロンパジョンと対戦。初回に2度ダウンを喫し、懸命に反撃するも及ばず10R判定負け。スコアは0-2(94-97、92-97、95-95)。
4月28日、大阪府立体育会館第二競技場にてタイ国フライ級王者のユーシ・ウアウサンパンと対戦。2Rに右フックでユーシをぐらつかせるも、3Rには逆にダウン寸前に陥る。6Rユーシの右でダウンを喫し敗色濃厚だったが、終盤の懸命な攻勢により僅差ながら10R判定勝ちを収める。スコアは2-1(96-94、94-95、96-94)。
8月3日、松下IMPホールにてWBC世界フライ級第14位のロセント・ベガ(メキシコ)と対戦。僅差ながらも10R判定勝ちを収める。スコアは3-0(97-94、97-94、96-95)。
2月8日、松下IMPホールにて元IBF世界ミニマム級王者のラタナポン・ソーウォラピン(タイ)と対戦。1Rにラタナポンの左強打を浴びてグロッギーとなり、レフェリーストップによるTKO負けを喫する。
5月13日に東京・後楽園ホールにて亀田大毅(亀田)とのノンタイトル10回戦を戦う予定であったが、4月11日より座禅修行のために赴いていた京都市の寺から13日午後、滋賀県大津市の滝へ数名で向かい、その後滝壺で亡くなっているのが発見された。滝には1人で近づき、誤って足を滑らせ転落し、そのまま溺死したとみられる[4]。テンプレート:没年齢。
戦績
プロボクシング:36戦24勝(10KO)6敗(3KO)6分
獲得タイトル
関連項目
脚註
外部リンク
テンプレート:Championshiptitle先空- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 今日注目の一戦 小松、内藤とも計量パス!「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2006年6月27日閲覧
- ↑ ジム移籍の小松、新スタイルで世界再挑戦 日刊スポーツ大阪版 2007年2月1日閲覧
- ↑ 滝つぼ事故のボクサー小松さんは溺死 来月3日に追悼興行 MSN産経ニュース 2009年4月15日閲覧