ベニグノ・アキノ・ジュニア

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ファイル:Ramon Magsaysay and Ninoy Aquino 1951.jpg
(左から)ラモン・マグサイサイとペニグノ・アキノ(1951年)

“ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニアテンプレート:Lang-en, 1932年11月27日 - 1983年8月21日)は、フィリピン政治家上院議員(1期)、大統領国防省顧問、タルラック州知事(2期)、タルラック州副知事、コンセプシオン市長(1期)、自由党幹事長を務めた。

概説

通称が「ニノイ」であったため、ニノイ・アキノという呼び名で知られた。

事実上の独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノは、マルコス政権の最大の脅威にして大統領の最強のライバルであったが、逃れていたアメリカ合衆国から帰国の矢先、マニラ国際空港で暗殺された。この死が、やがてマルコス政権の崩壊とベニグノの妻コラソン・アキノ(コリー)の大統領就任へつながってゆく。

生涯

人気政治家

ベニグノ・アキノは、タルラック州コンセプシオンで、地元の名士の家に生まれた。祖父はエミリオ・アギナルドの側近として活躍し、父ベニグノ・アキノ・シニアホセ・ラウレル政権下で活躍した政治家であった。父ベニグノ・シニアが亡くなったとき、ニノイは10代だった。父はそのころ、戦争中の対日協力者としての批判の只中にいた。父の死は、ニノイの生き方に影響を与えることになった。思うところがあったニノイは、大学を離れて、ジャーナリズムの世界に身を投じた。

1954年ラモン・マグサイサイ大統領の下で働いていたニノイに、困難な任務が与えられた。反政府グループであるフクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを説得して投降させるようにというものだった。4ヶ月にもわたる熱心な説得の末に、タルクは無条件投降した。ニノイの名声は高まり、22歳にしてコンセプシオン市の市長に就任した。同年、後に大統領となるコラソン・コファンコと大恋愛の末に結婚している。

ニノイは、政治家として順調にキャリアを積んでいく。1961年、タルラック州の知事に当選し、1966年には自由党の幹事長に就任した。1967年には35歳で上院議員に当選。これは、現代に至るまで、フィリピン史上最年少での上院議員当選の記録として、いまだ破られていない。

投獄と追放

1972年、ニノイの運命を大きく変える出来事が起こった。マルコス大統領が全権を掌握すべく、全土に戒厳令を敷いたのである。反政府側の危険人物とされたニノイは、逮捕・投獄された。容疑は、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などであった。ニノイは、1977年に死刑を宣告されたが、さすがのマルコスも国民に人気のあるニノイを本当に処刑することはできず、1980年に入って、「アメリカ合衆国で手術を受けさせる」という名目で、ニノイをフィリピンから追放した。ニノイは、妻と共にアメリカ合衆国に逃れることになった。

ファイル:Marcos visit Reagan 1982.jpg
マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカのロナルド・レーガン大統領

上院議員時代から、ニノイはマルコス大統領を脅かす存在として広く認められていたが、どちらかというと大地主の一族の出身で、フィリピンの伝統的支配階級の申し子といった観があった。さらに、テレビ映りのいいニノイは国民に根強い人気があったが、政権を脅かそうとか、マルコスに取って変わろうというような気持ちを、本人はそれほど持っていなかったと思われる。

そんなニノイを変えたのが、獄中での生活であった。牢獄の中で、ニノイは初めてカトリック信仰から生きる力を得るようになった。同時に、マハトマ・ガンディーマーティン・ルーサー・キングの著作からも、大きな影響を受けた。いまやニノイは単なるお坊ちゃん政治家ではなく、強い信念を持った思想家となっていた。以後、ニノイは、非暴力主義を掲げながら、歯に衣着せずにマルコス政権を批判するようになる。彼は、マルコス政権を厳しく批判しながらも、国民に対しては決して暴力に訴えないよう常に求めていた。突如としてキリスト教思想を全面に押しだすようになったニノイを、冷やかな目で見ていた人もいたことは確かだが、ニノイが強い思想性を帯びるようになったことは、後に妻のコリーの政治家としての姿勢に強い影響を与えることになり、ニノイが死後、現代の殉教者として称えられることになる基盤を作った。

暗殺

外国生活の中でも、ニノイは常に反マルコスの筆頭であり続けた。そのニノイがついにフィリピンに戻る日がやってきた。戻ればどのような危険と困難が待ち構えているか、命を失うおそれすらあることをニノイは十分わかっていた。それでも彼は苦しんでいる国民のそばにいたいと願い、マルコスに対し政治改革と平和的退陣を直接訴えようと思っていた。ニノイは経由地の台北でTBSのインタビューに応じ、「あすは殺されるかも知れない。事件は空港で一瞬のうちに終わる」と話した[1]

1983年8月21日、国軍の兵士たちが厳重に警戒にあたっていたマニラ国際空港に、ニノイは台北から乗ってきた中華航空機で到着した。機内にはアキノ氏帰国を取材するために多くの取材陣が乗っており、カメラによる撮影もなされていた。そこへ3人の兵士がニノイを機外へと連れ出しに来た。乗り込んできた兵士は、立ち上がって一緒に出ようとしたニノイの義弟ケン・カシワハラに「You just take seat! (お前は座っていろ!)」と告げた。ニノイは兵士とともにタラップを降りると、すぐ頭を撃たれて倒れた。即死だった。ニノイの最後の言葉は、飛行機を降りる直前に同行していた記者に言った、「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」だった。そしてニノイの言葉は、数分後に現実になってしまった。

同行していたTBSおよび米ABCのカメラが、ニノイがタラップに降り立った直後の銃声と、続けて窓の外に見えた光景、地面に横たわった彼と青服の男の遺体を捉えた[1]。だが、彼らは飛行機の出入口付近で足止めされたために発砲の瞬間を撮ることはできなかった。しかし、両脇をフィリピン軍兵士に抱えられてニノイがタラップを降り始めたその時、「プシラ(撃て)!プシラ(撃て)!」とフィリピン兵がタラップ下で待機していた暗殺犯に命じた声が鮮明にTBSの映像に残され、その直後に複数の銃声が轟いてニノイらは狙撃された。その後、数人の兵士があわててアキノ氏の左腕を引っ張り上げながら遺体を運び出す姿も捉えられていた。事件後にフィリピン政府は、「アキノ氏は空港警備員を装った男によって射殺され、その場で犯人は射殺された」と発表した。ニノイに同行取材していた日本人ジャーナリスト若宮清は、連行していた兵士がニノイを撃つのを目撃したと語った[2]。しかし、マルコス独裁体制下にあった時のフィリピン政府は乗客らの目撃証言を黙殺し、事件は政府や軍部とは無関係の左翼ゲリラ組織「新人民軍」のロランド・ガルマン(Rolando Galman)なる人物の単独犯行であると発表した。

TBSは事件から1週間後の8月28日に報道番組『報道特集』で「アキノ白昼の暗殺」と題した特別番組を放送した(1984年度日本新聞協会賞を受賞)。この番組では撮影した事件映像を基に、フィリピン政府発表の矛盾点をあぶり出した。まず、フィリピン政府の当初発表では「連行兵士は3人」だったのに、映像ではボーディングブリッジの中で途中から、肩からホルスターを吊ったもう1人の兵士が加わっていた。また、「犯人はタラップ下にいた青シャツの民間人ガルマン」と発表されたが、遺体の銃痕は後頭部から上あごへ斜めに抜けていた。そして出演した銃器専門家によれば、ガルマンの凶器とされた.357マグナム弾を使う銃を至近距離から発射した場合、頭部は酷く破砕され、遺体にあるようなきれいな銃痕は残らないとされた。番組の結論として、連行兵士は3人でなく4人で、またガルマン犯行説は合理性に欠けるとフィリピン政府発表に疑問を呈し、ニノイがタラップを降りる途中で連行兵士に撃たれた可能性を指摘した[1]。のち、フィリピン政府は前言をひるがえし「連行兵士は実行部隊の4人に加え指揮官1人の合計5人」と訂正発表を行うにいたる。

のちに、暗殺に使われた銃はガルマンが持っていたとされるリボルバーではなく、フィリピン兵士が携帯するコルト・ガバメントであった事が日本音響研究所鈴木松美による発砲音鑑定により確認されている。さらに鈴木が航空機のエンジンノイズを除去した音声を分析したところ、ニノイに同行した兵士たち4人が「アコナ(俺がやる)」「プシラ(撃て)」と発砲直前に叫んでいたことが判明した。鈴木はこれをフィリピンの法廷で証言した。

この事件が起こった頃、マルコス大統領本人は部下に指示を下せる状況ではなかった。10日前に腎臓の移植手術を受けたが、術後の状態が思わしくなかったのである。病床にあってこのニュースを聞いたマルコスは、翌日、体調がすぐれぬままテレビカメラの前で記者会見を行い、調査委員会の設置を指示した。調査委員会は、軍の高官を含む多くの人々を共謀の疑いで告発したが、彼らはすぐに無罪釈放となった。滑走路の警備にあたっていた兵士たちは、無期懲役を宣告され、投獄された。兵士たちはのちに恩赦で懲役22年に減刑されているが、ある兵士は、黒幕はマルコスの親友でコリーのいとこにあたるエドアルド・"ダンディン"・コファンコであったと証言している。

1983年8月31日に行われたニノイの葬儀は、盛大なものとなった。式は朝9時に始まったが、あまりに多くの群集が集まったため、棺が墓地に収められたのは12時間後の夜9時になった。葬儀ミサは、フィリピンのカトリック教会のトップであるハイメ・シン枢機卿が司式し、サント・ドミンゴ教会で行われた。200万人の人々が街頭に出て、ニノイの棺を見送った。さらに、数百万人の人々がラジオで葬儀の実況を聞いていた。ほとんどのマスコミは、政権の不興をかうことを恐れて放送を見送ったが、カトリック教会が後援するラジオ・ベリタスただ一局が、葬儀の模様を実況中継した。この葬儀では、人々はマルコス政権への怒りを表立って示すことはなかった。民衆は、むしろ冷静だったが、唯一の例外は棺がフィリピンの英雄ホセ・リサールを記念したリサール公園の中を通ったとき、記念碑のところにあった国旗が民衆によって力ずくで弔旗にされたことであった。

マルコス政権の終焉

ニノイの暗殺は、反マルコスの機運を爆発させることになった。それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にして全土を覆うようになっていた。首都メトロ・マニラでは、貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。貧窮にあえぐ民衆だけでなく、実業家たちも、いまやマルコスの政治に限界を感じていたのである。さらに、暗殺現場に居合わせたカメラマンの映像を基にしたTBSの検証番組が、海賊版としてフィリピンで上映されたことも拍車をかけた[1]

皮肉なことに、最大の政敵が殺害されたことが、逆にマルコスが政権内を完全にコントロールしきれていないことの証左となり、マルコスの弱さを露呈することになった。フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、アメリカ合衆国の注目をひいた。やがて世界がフィリピンの動向に注目し始めると、イメルダ夫人の豪勢な生活スタイルやマルコス大統領の独裁体制に非難が集中するようになった。

親米のフィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、アメリカとしては絶対に避けたいものだった。ロナルド・レーガン大統領もマルコス大統領に対し、ニノイ暗殺の責任があるといって非難するようになったが、西側諸国の盟友だったマルコスを見捨てるほど冷酷でもなく、後に国外へ逃れたマルコスをハワイに迎え入れている。

ニノイが暗殺されると、その遺志を継ぐことになった未亡人の“コリー”コラソン・アキノが、にわかに注目の人となった。1986年に、マルコスは、国民の不満を解消するため、大統領選挙を行わざるを得なくなっていたが、そこに立候補したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、国民の大多数の支持を得た。選挙期間中、コリーはフィリピン全土を回って支持を訴えた。

1986年2月7日、ついに投票が行われた。選挙管理委員会はマルコスが勝利したと発表したが、コリーと支持者達(監視委員会「NAMFREL」。National Citizens' Movement for Free Elections:「自由な選挙のための全国市民運動」の略)は明らかな不正が行われたとしてこれを受け入れず、抗議した。結果的に、この抗議を支持した民衆が立ち上がり、軍の高官たちもマルコスを見放した(エンリレ国防相とフィデル・ラモス副参謀総長が、「マルコスをもう大統領とは認めない」と声明し、国防省のあるアギナルド空軍基地に篭城、ラジオ・ベリタス・アジアも市民に二人の支援を呼びかけた事は有名)ことで、マルコスとその一族はフィリピンを追い出されてハワイに向かった。これをエドゥサ革命(別名:イエロー革命、ピープルパワー革命)という。コリーは新大統領に就任し、フィリピンの新時代が到来した。

時代が彼を殉教者にしたともいえる男、ニノイ・アキノは今でも根強い人気を誇っている。500ペソ札にはニノイの肖像が印刷されており、ニノイが凶弾に倒れたマニラ国際空港は後にニノイ・アキノ国際空港(NAIA)と改称された。ニノイの息子ベニグノ・アキノ3世はタルラック選出の上院議員となり、2010年の大統領選挙に出馬、当選した。娘のテンプレート:仮リンクは女優としてテレビや映画で活躍している。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 三好和昭「報道特集『アキノ白昼の暗殺』 特ダネは一日にして成らず」日本民放クラブ『民放くらぶ』第101号 pp.15-18
  2. 「NHK特集 緊急報告 アキノ氏暗殺」NHK, 1983年8月26日放送

関連項目