小島心二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年3月29日 (土) 22:25時点におけるMaplefreak.tokyo (トーク)による版 (プロ入り前)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox baseball player 小島 心二郎(こじま しんじろう、本名:小島 紳二郎(読み同じ)、1982年6月11日 - )は、東京都小平市出身の元プロ野球選手投手)。

テンプレート:Byまでの登録名は、本名である小島 紳二郎

経歴

プロ入り前

実兄は創価高等学校小谷野栄一と同期で、4番一塁手として同校の第70回選抜高等学校野球大会出場に貢献した[1]

中学時代は東村山リトルシニアでプレー。国士舘高等学校2年時の秋季東京都大会決勝では完封勝利で優勝に貢献。3年春の第72回選抜高等学校野球大会では初戦の高岡第一高等学校戦で完封勝利を挙げた。2回戦の智弁和歌山戦で逆転され敗退。同年6月に来日した全米高校選抜チームとの対戦に東京都選抜チームのエースとして登板して勝利した。夏の大会直前、肘の故障により全国高等学校野球選手権東東京大会は登板することができず、甲子園での復帰を目指していたが、決勝で桑原義行のいる日大豊山高等学校に敗れて願いは叶わなかった。

高校卒業後は、東都大学野球連盟に加盟する国士舘大学へ進学。

テンプレート:Byプロ野球ドラフト会議で、広島東洋カープから5巡目指名を受け入団。

プロ入り後

プロ1年目のテンプレート:By8月27日、中日ドラゴンズ戦で初登板を初先発という形で果たす。

テンプレート:By9月19日の読売ジャイアンツ戦で、5回1失点と好投するも救援陣が打たれ、勝利を逃すなど、白星に手が届かなかった。

テンプレート:Byは、リリーフで1試合の登板に留まり、防御率も40.50と打ち込まれてしまった。

テンプレート:Byは、二軍でも防御率5点台と調子が上がらず、プロ4年目で初の一軍登板無しのシーズンとなり、翌テンプレート:Byも一軍登板は無かった。

テンプレート:Byから、フォームをサイドスローに変更。3年ぶりに一軍登板を果たした。同年11月8日菊地原毅との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍[2]

テンプレート:Byは一軍登板無しに終わり、10月9日に戦力外通告を受け[3]、12月2日に自由契約公示され、現役を引退。

引退後は、オリックス・バファローズで打撃投手となった[4]

プレースタイル・人物

高校時代は最速138キロの直球とチェンジアップ、鋭くコーナーを攻めるカーブで相手打線を封じ込めた[1]

手塚一志によって書籍「ジャイロボール」中でジャイロボールを投げていると指摘された。手塚によると、小島は4シームジャイロボールと2シームジャイロボールの2種類を投げ分けている。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 広島 2 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- 37 8.0 8 1 6 0 0 5 0 0 5 5 5.63 1.75
テンプレート:By2 4 4 0 0 0 0 2 0 0 .000 91 21.0 25 3 2 1 1 12 0 0 13 13 5.57 1.29
テンプレート:By2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 8 0.2 4 1 2 0 0 0 0 0 4 3 40.50 9.00
テンプレート:By2 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 10 2.0 3 0 1 0 1 0 0 0 1 1 4.50 2.00
通算:4年 11 6 0 0 0 0 2 0 0 .000 146 31.2 40 5 11 1 2 17 0 0 23 22 6.25 1.61

記録

背番号

  • 58 (2005年 - 2010年)
  • 46 (2011年)
  • 100 (2012年 - )

登録名

  • 小島 紳二郎 (こじま しんじろう、2005年 - 2007年)
  • 小島 心二郎 (こじま しんじろう、2008年 - 2011年)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:広島東洋カープ2004年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 「青春譜 - マウンドを踏めなかったエース 国士舘・小島紳二郎投手(3年)」毎日新聞、2000年8月1日付東京版朝刊23面。
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web