奥田忠高
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奥田 忠高(おくだ ただたか、大永2年(1522年)- 慶長6年4月25日(1601年5月27日))は、戦国時代に大和国畑城(現在の奈良県山添村)を根拠とした武将である。官途名は主税助、三河守。通称は八郎右衛門、三郎右衛門。小山八郎右衛門の子で、奥田兼重の養子となる。
小豪族の習いで、松永久秀・筒井順慶・豊臣秀長といった歴代の大和国主に仕えて勢力を維持する。秀長の死後、一度は致仕して大和へ隠棲したが、慶長5年(1600年)に山岡景友を仲介者として家康に仕え関ヶ原の戦いでは東軍側について活躍し、徳川家康から大和国山辺郡と紀伊国名草郡に2,800石を与えられたが、ほどなく死去した。享年80。法名は道虚。
子孫は江戸幕府の旗本となり、明治維新まで家名を残した。息子の忠次は大坂夏の陣で後藤基次と激闘の末に戦死した事で知られている。