細川興文

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細川 興文(ほそかわ おきのり、1723年10月11日享保8年9月13日)- 1785年8月9日天明5年7月5日))は、肥後国宇土藩の第5代藩主。

第3代藩主・細川興生の三男。母は竹間氏(妙禅院)。正室は八条隆英櫛笥賀子の弟)の娘。側室は雨森氏、長照院。子は細川興武(長男)、細川立礼(斉茲)(三男)、細川孝応(四男)、石川総彬(五男、妻は石川総候の娘)、謡台院(細川治年正室)、冬菊(丹羽氏福正室)。官位は従五位下、中務少輔。幼名は哲之助。初名は興周(おきちか)。

延享2年(1745年)、嗣子の無かった兄・興里の養嗣子となり、同年の兄の死去により家督を継いだ。この頃、宇土藩でも財政窮乏化が進んでいたが、興文は本家の細川重賢と協力して藩政改革に取り組んだ。興文はなどの栽培を奨励し、儒学者の江口恵次郎を招聘して藩校温知館を創設する。さらに茶道においても小堀長順を招聘して学ぶなど、殖産興業政策や教育制度の確立に尽力した。明和9年(1772年)正月25日、病により家督を三男・立礼に譲って隠居し、月翁と号した。天明5年(1785年)7月5日、63歳で死去した。

文化人としても優れており、隠居した翌年には蕉夢庵を建築し、茶道書である『平置諸品集』や歌集である『桂源遺稿』、『自家便覧』など多くの著作を残している。

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