岩谷徹 (ゲームクリエイター)
岩谷 徹(いわたに とおる、1955年1月25日 - )は日本のゲームクリエイター。「パックマン」の生みの親として知られる。東京都目黒区出身。大阪芸術大学客員教授、東京大学大学院特任教授、東京工芸大学教授。
来歴
1955年、3人兄弟の末っ子として東京都目黒区に生まれる。日本放送協会(NHK)に技術者として勤めていた父親の都合により、幼稚園の在園中に秋田、盛岡、仙台などの東北地方を転々とする。中学生時代に再び東京へ戻り、東京都立大学附属高等学校を経て東海大学工学部を卒業。
1977年にナムコ(現・バンダイナムコゲームス)に入社。開発課に配属される。ピンボールゲームを作りたかったというのが入社理由だったが、当時ナムコは特許関連の解決が難しかったことを理由にピンボールを作っていなかったため、入社後しばらくはナムコが国内販売を行っていたアタリ社の基板修理、知的財産権の管理などを担当した。
1978年、ビデオゲームの開発を担当する。長らく温めていたピンボールの構想と、当時流行していたブロック崩しを融合させたアイディアをモチーフに、ナムコのビデオゲーム第1弾となる「ジービー」を開発。ジービーは日本国内で1万枚以上の出荷台数を確保することに成功し、ナムコが本格的にビデオゲーム産業へ参入する足がかりを作った。しかし、スペースインベーダーのブーム到来により、販売枚数が振るわなかった。
続編の「ボムビー」のゲームデザイン、「キューティQ」のグラフィックデザインを経て、1980年には他の社員4人と共に「パックマン」を企画、開発した。パックマンは1980年7月に日本で発売[1]されたがギャラクシアンほどのヒットとはならなかった。その後、北アメリカでリリースされた際、正規品だけで28万台を出荷[2]、「パックマン・フィーバー」というディスコミュージックやテレビアニメが作成されるなど北アメリカを席巻した。このことからパックマンは「80年代のミッキーマウス」と称された。パックマンは世界中でリリースされて大ヒットとなり、ライセンス料など含めて数百億円の売り上げを記録、コンピューターゲームの歴史に名を刻んだ。パックマン30周年を迎えた2010年には生みの親の岩谷自身も開発者として改めてギネス認定された[3]。
1983年発売の「リブルラブル」の企画兼プロデュースを境に、以降はプロデューサーを専業し「ドラゴンバスター」、「源平討魔伝」、「リッジレーサー」、「アルペンレーサー」、「タイムクライシス」など、数多くの作品を手がけた。
2003年にCESAが開催した開発者セミナー「CEDEC 2003」において講師を務め、2005年4月から大阪芸術大学キャラクター造形学科の客員教授として教鞭を執るなど、対外活動を積極的に行っていた。2007年4月からは東京工芸大学アニメーション学科ゲームコースの教授として次代のクリエイターの育成に力を注いでいる。
主な担当作品
ゲームデザイン
グラフィックデザイン
フィールドデザイン
プロデュース
- ラリーX
- ボスコニアン
- ギャラガ
- ポールポジション
- ゼビウス
- マッピー
- パックランド
- ドラゴンバスター
- 源平討魔伝
- パックマニア
- ファイナルラップ3
- エアーコンバット
- リッジレーサー
- ファイナルラップR
- アタックオブゾルギア
- ガンバレット
- サイバーコマンド
- アルペンレーサー
- タイムクライシス
- トーキョーウォーズ
- プロップサイクル
- ファイナルハロン
- アルペンサーファー
- ラピッドリバー
- ガンメンウォーズ
- アングラーキング
著書
参考文献
脚注
外部リンク
- 『パックマン』30周年、岩谷徹氏にQ&A | WIRED.jp
- 『パックマン』の生みの親、岩谷徹氏が語る、 おもしろいゲームの開発手法
- これから求められるゲームクリエーターの資質とは? 岩谷徹氏に聞いた(ファミ通)
- 岩谷徹氏がゲームクリエイターの資質を問う――「劇的3時間SHOW」開催中(Itmedia)
- 東京工芸大学研究・制作業績システム(東京工芸大学)