小田治久

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小田 治久(おだ はるひさ、1283年2月10日弘安6年1月12日)-1353年1月16日正平7年/文和元年12月11日[1][2][3][4])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将小田氏の第8代当主。官位は宮内権少輔[1]尾張権守[1]常陸介[1]。初名は小田高知[1][2][4](おだ たかとも)[3]。子に小田孝朝がいる[5]

生涯

弘安6年(1283年)、常陸にて[3]第7代当主・小田貞宗(さだむね)[1][2][4][6]の子として生まれる。北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権北条高時より偏諱を受けて初名の高知を名乗った[7]

嘉暦2年(1327年)、父の代理として陸奥安藤氏の乱鎮圧で功を挙げ、翌年鎌倉に帰還した[1]元弘元年(1331年)の元弘の乱では鎌倉幕府軍に従ったが、同幕府が滅亡するとその罪を問われることを恐れて、幕命で常陸国に流罪とされていた万里小路藤房を助けて上洛し、後醍醐天皇に仕えた[1]。この時に後醍醐天皇の知遇を得て治久に改名したとされる[2][4][8]。のちに足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると南朝側に与し[1]延元元年/建武3年(1336年)には常陸瓜連城などに拠って楠木正家と共に、常陸の佐竹氏などの北朝勢力と戦った[1][2]。その後延元3年/暦応元年[2][4]北畠親房小田城に迎えた[9]ため、尊氏の命を受けた高師冬の攻撃を受け、興国2年/暦応4年(1341年)には北朝に降伏することを余儀なくされた[1][4]。以後は北朝方に属して戦い[1][2][3][4]、師冬に従って大宝両城の攻略にあたった[1]関城・大宝城の戦い)。正平7年/文和元年(1353年)12月11日、70歳で死去し、後を子の孝朝が継いだ[1]。法号は妙光院索准覚翁[1]

参考文献

  • 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.111 「小田孝朝」、「小田治久」の項(執筆:田代脩)
  • 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)

脚注

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  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 安田、1990年、p.111。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「小田治久」の項(執筆:山田邦明)より。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収))「小田治久」の項より。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 世界大百科事典 第2版』「小田治久」の項(執筆:網野善彦)より。コトバンク版はこちら
  5. 鑁阿寺新田・足利両氏系図』によると、常陸小田城主・小田真知の娘が新田義貞の正室となって新田義宗を生んだとしているが、義貞や義宗の活動した時期の同城城主は治久であり、小田氏の系図にその名前自体が見られないことから、特に誤りがなければ真知は治久のことを指している可能性がある。
  6. 武家家伝_小田氏の系図では「小田貞朝(別表記:小田貞知)」となっている。『朝日日本歴史人物事典』で「小田治久」の項を書いた山田邦明も、貞宗は建武2年(1335年)に53歳で死去したといわれ、その場合治久と同年代になるので兄弟関係にあったのではないかとしている。いずれにせよ北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権の北条貞時より「貞」の字を受けた人物であるということが紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図)にて言及されている。
  7. 紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図)には、小田泰知以降、貞宗を除いた歴代当主が「得宗の偏諱+通字の知」で諱を構成している様子が記されており、この慣例に倣ったのは間違いないであろう。但し、貞時が死去し高時が得宗家を継いだのが応長元年(1311年)、或いは高時が元服したのが延慶2年(1309年)であり、治久(高知)は1309年当時は27歳、1311年当時は29歳となるため、単に元服が遅かったか、それまでに何かしらの前名を名乗っていた可能性がある。
  8. 『朝日日本歴史人物事典』(山田邦明)がいう「知遇」の内容は不明だが、天皇(諱は尊治)から「治」の字を賜ったこと(武家家伝_信太氏に記述あり)がその1つと考えられる。同様の例として足利高氏が「尊」の字を受けて尊氏と改名した事例がある。
  9. この時に親房は『神皇正統記』や『職源鈔』を執筆したとされている(近年の関連文献に、『神皇正統記』(岩佐正校注、岩波文庫、重版多数)、加地宏江『中世歴史叙述の展開 「職原鈔」と後期軍記』(吉川弘文館、1999年)、『和歌職原鈔』(今西祐一郎校注、平凡社東洋文庫、2007年)がある)。