生島新五郎
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テンプレート:歌舞伎役者 生島 新五郎(いくしま しんごろう、寛文11年(1671年) - 寛保3年1月5日(1743年1月30日)[1])は、江戸時代中期の歌舞伎役者。江戸城大奥の御年寄であった絵島と共に、江島生島事件の中心人物である。一方で二代目 市川團十郎の師匠の一人でもある。
大坂生まれ。貞享元年(1684年)に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年(1691年)、生島新五郎と改名。当時を代表する人気役者となった。
正徳4年(1714年)、大奥御年寄の絵島が寺へ参詣した帰途、新五郎の舞台を観覧し、その後宴会を開いた事で大奥の門限に遅れ、大きな問題となった。このことから絵島との密会が疑われ、捕縛の上、石抱の拷問にかけられ、「自白」させられた[2]。評定所が審理した結果、新五郎に三宅島へ遠島(流罪)の裁決が下る。また山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座となった。
寛保2年(1742年)2月、徳川吉宗により赦免され江戸に戻ったが、翌年小網町にて73歳で没する。ただし、1733年(享保18年)に三宅島で死去したという説もある[1]。戒名は道栄信士。墓所は三宅島にある。
この事件を題材にした川柳に「やつさずに濡れ事をする新五郎」がある。「やつす」とは「化粧をする」という意味。
演じた役者
脚注
テンプレート:Reflist- ↑ 1.0 1.1 国史大辞典、吉川弘文館。
- ↑ http://okachan.blue.coocan.jp/bunkazai/0136/0136.html 生島新五郎の墓