北進統一
北進統一(ほくしんとういつ)とは、大韓民国初代大統領・李承晩の朝鮮半島統一構想である。
1945年8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦に降伏した後、連合国は朝鮮を植民地解放闘争の戦勝国とは扱わなかった。
1945年2月に連合国の首脳が合意したヤルタ協定に基づき、朝鮮半島の北緯38度線を境に、北部はソ連軍が、南部はアメリカ軍が占領した。日本降伏による解放後、1945年中に連合軍軍政期の朝鮮には朝鮮建国準備委員会(建準)が樹立されていたが、北部ではソ連軍が建準を通した間接統治を進め、南部ではアメリカ軍によって建準が解体され、日本の旧植民地統治機構を一部復活させての在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治が敷かれた[1]。
ソ連もアメリカも国際連合を通して南北統一総選挙を模索したものの、東西冷戦の進展から米ソ対立には折り合いが付かず、1948年5月10日に朝鮮半島南部単独選挙が実施された。大統領に選出された李承晩は、大韓民国を反共産主義の基地とし、建国後に戦争で既に朝鮮半島北部に存在した北朝鮮人民委員会による社会主義政権を打倒すればよいと考えた。
1948年8月15日に李承晩大統領の下で朝鮮半島南部単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日に、残余の朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国が建国された。両国の建国後、それぞれ北朝鮮の金日成は「国土完整」を、南朝鮮の李承晩は「北進統一」を人々に訴え、南北両政府は互いに互いの併呑を模索した[2]。
1950年6月25日に朝鮮人民軍の南進によって朝鮮戦争が勃発した後、1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦協定を、戦争当事国であったアメリカ合衆国、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国が批准したにも拘らず、大韓民国が批准しなかったのは、李承晩が北進統一に固執したからだと言われる。なお、大韓民国が休戦協定を批准しなかったことで、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国に「南朝鮮傀儡を相手にせず」との理由を与えた。
1953年7月27日以後も朝鮮戦争は休戦状態にあるため、大韓民国の青年たちが兵役に付くことを余儀なくされている。