尼子政久
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尼子 政久(あまご まさひさ)は、戦国時代の武将。尼子経久の嫡男。
生涯
父の尼子経久は尼子氏の戦国大名としての基盤を整えた名将であるが、この政久も父に劣らず智勇に優れた武将であった。また、軍略だけでなく笛などを嗜む教養人であり、時の後土御門天皇からもその文才を高く評価されている。経久が出雲統一を成し得たのは自身の優秀さだけではなく、嫡男の政久における才能によるところも大きい。また、名前の「政」の字は、父・経久同様に元主君京極政経より偏諱を賜ったものである。
永正15年(1518年)、尼子氏の勢力拡大を恐れた桜井宗的が磨石城にて反旗を翻した。経久は政久を総大将とした軍勢を派遣して磨石城の一気攻略を目指したが、堅城であったために尼子の大軍をもってしても容易には落ちなかった。しかも、長期戦の様相を呈し始めたため、尼子軍内部で厭戦気分が流れ始めた。政久は得意の笛の音をもって味方の兵を鼓舞し、磨石城を激しく攻め立てたが、城兵側が笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放ち、一本が政久の喉に当たり即死した。享年31。