ザ・ランナウェイズ
テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox musical artist ザ・ランナウェイズ(The Runaways)は、1970年代に活躍したアメリカの女性ロック・バンド。 活動期間中に4枚のスタジオ・アルバムとライブ・アルバム1タイトルをリリース。アメリカ本国での大きな成功には恵まれなかったが、1977年のシングル「チェリー・ボム (Cherry Bomb)」の大ヒットにより、主に日本で大人気を博した。
デビュー当時の平均年齢は16歳。ガールズ・ロック・バンドの草分け的存在である。シェリー・カーリーのコルセットとガーターベルトのほとんど下着姿という過激な衣装は衝撃的であった。本国よりも日本での人気が高まり、篠山紀信がシェリーを題材に「激写」を敢行したほか、1977年には来日公演も行った。
結成まで
1975年終盤、ドラマーのサンディ・ウェストとリズム・ギタリストのジョーン・ジェットが、プロデューサーのキム・フォウリーの紹介で知り合ったところからバンドの歴史はスタートする。ウェストの自宅で対面した2人は、フォウリーにメンバー探しの支援を依頼。当初はシンガー兼ベーシストのミッキ・スティール(後にマイケル・スティールの名でバングルスに加入)を加えたパワー・トリオとして活動を開始、ロサンゼルス近辺のパーティ会場やクラブで演奏した。
まもなくリード・ギタリストのリタ・フォードが加入。スティールは脱退し、地元のベーシスト、ペギー・フォスターを加入させるが1カ月で脱退。地元のナイトクラブ「シュガー・シャック」で歌っていたボーカリストのシェリー・カーリーをスカウトし、ジャッキー・フォックスがベースとして加入。デビュー時のラインナップが揃った。
- シェリー・カーリー (Cherie Currie - Vo,Key)
- ジョーン・ジェット (Joan Jett - G,Vo)
- リタ・フォード (Lita Ford - G)
- ジャッキー・フォックス (Jackie Fox - B)
- サンディ・ウェスト (Sandy West - Ds)
デビュー~人気グループへ
フォウリーの指揮の下、1976年にマーキュリー・レコードと契約。すぐにデビュー・アルバムThe Runaways (邦題「悩殺爆弾~禁断のロックンロール・クイーン」)をリリースする。各メンバーはそれぞれ手本とするイメージ・キャラクターを持ち、カーリーはデヴィッド・ボウイ、ジェットはスージー・クアトロ、フォードはリッチー・ブラックモアとジェフ・ベック、ウェストはロジャー・テイラー、フォックスはジーン・シモンズをそれぞれイメージして自らのキャラクターを育てていった"[1]。
1977年、セカンド・アルバム『クィーン・オブ・ノイズ』("Queens of Noise") をリリース、ワールド・ツアーを敢行する。折しも勃興したパンクムーブメントにも後押しされグループの勢いが加速する。同年夏に初来日。ランナウェイズは、当時の日本におけるレコード売上げでアバ、キッス、レッド・ツェッペリンと肩を並べるセールスを誇る人気グループであり、空港には大勢のファンが押しかけ、現場は大混乱に陥った。この時の喧騒をジェットは後に「まるで『ビートルズ旋風[2]』」と回顧している。日本滞在中には、彼女たち自身の特集番組をはじめ数多くのテレビ番組に出演。日本公演を収録した『ライブ・イン・ジャパン』はゴールドを獲得。しかし、この日本ツアー中にフォックスが脱退表明。後任には、新たにヴィッキー・ブルー(Vicki Blue)を迎えたが、続いてグループの看板であるカーリーまでもが脱退し、それまでもカーリーとボーカルを分け合っていたジェットがフルタイムのシンガーとなる。
体制を立て直したバンドは4枚目のアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・ナイト』(Waiting For The Night) を発表し、ラモーンズとともにワールドツアーを行う。カーリーはソロ・アルバムをリリースし、単独でのツアーを行った。
解散
1978年、金銭問題など様々な意見の不一致が原因で、バンド結成以来のパートナーであったキム・フォウリーと袂を分かち、マーキュリーとの契約も破棄。グループは、ブロンディやスージー・クアトロを手がけたトビー・マミズとマネジメント契約を結ぶ。同年11月、ヴィッキー・ブルーが健康問題で脱退。ローリー・マカリスター(Laurie McAllister)に交代。バンドはこの間、荒れたロックンロール的ライフスタイルを満喫する。
1979年、シン・リジィのプロデューサー、ジョン・アルコックを迎えて制作したアルバム『アンド・ナウ・ザ・ランナウェイズ』(And Now... The Runaways) をリリース。しかし、よりパンク・ロック的なアプローチを主張したジェットと、ハードロックを追求したいフォード、ウェストの意見の不一致等もあり[3]、同年グループは解散した。
メンバーのその後
ジョーン・ジェットは後に「アイ・ラブ・ロックンロール」の大ヒットを放つ。リタ・フォードもソロで成功を収めている。初期の一時期に在籍したミッキ(マイケル)・スティール(Michael Steele)は後にバングルスに加入した。
元ドラムスのサンディ・ウェストは、2006年10月21日、肺がんのために死去。47歳。
ディスコグラフィー
- The Runaways (1976) ビルボード194位 邦題/悩殺爆弾~禁断のロックン・ロール・クイーン
- Queens Of Noise (1977) ビルボード172位
- Live In Japn (1977) オリジナル・メンバーのライブアルバム
- Waitin' For The Night (1977)
- And Now The Runaways (1978)
- Flaming Schoolgirls (1980) 日本未発売
- Little Lost Girl (1981)
- The Best Of Runaways (1987)
- Neon Angels (1991) シェリー脱退後のライブ音源
- Born To Be Bad (1998) 1975年に録音された公式デビュー前の音源