フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal, 1874年2月1日 - 1929年7月15日)はオーストリアの詩人、作家、劇作家。ホフマンスタールとも表記される。ウィーン世紀末文化を代表する青年ウィーン派(Jung Wien)の一員であり、印象主義的な新ロマン主義の代表的作家。
ホーフマンスタール家は、チェコ出身のユダヤ系の商人イザーク・レーフ・ホーフマン(フーゴの曽祖父)が貴族の称号を受け、地名風の姓(ホフマンの谷)を名乗るようになったことに始まる家系なので(正しくは Hofmann von Hofmannsthal)、「ホーフマンシュタール」は誤読。
生涯
1874年、ウィーンの富裕な商家の家系に生まれる。もともとユダヤ系の家系であったが、祖父はイタリア人の女性と、父はドイツの農家の女性と結婚しており、フーゴ自身にはユダヤ、イタリア、ドイツの血が流れている。幼年期から家庭教師がついてギリシア・ラテン文学を始め、中世、ルネサンス文学にいたるヨーロッパの古典文学を学んだ。ギムナジウム時代から詩作を始め、早くも16歳の頃よりLoris、Theophil Morrenなどの筆名を用いて戯曲や随筆を発表し文壇を驚かせた。1891年、芸術至上主義を掲げる5歳年上のシュテファン・ゲオルゲと知り合い多大な影響を受け、ゲオルゲの主宰する『芸術草紙』の寄稿者となった。1892年、ウィーン大学に入学し、法律を学ぶ。しかし、後にロマンシュ諸語、特にその詩法の研究に転じた。
初期には象徴主義的な詩も発表していたが、特に『痴人と死』などの世紀末的な雰囲気をたたえた韻文劇で名声を得た。27歳のときに、世紀転換点における芸術家の精神的な危機を架空の手紙の形で記した『チャンドス卿の手紙』を発表、これが彼自身の転機ともなり、以降はソフォクレスやエウリピデスなどの古典劇に近代的解釈を加えて優れた翻案・改作を作り出した。またこの時期にリヒャルト・シュトラウスと組んで『薔薇の騎士』などのオペラや喜劇などを執筆している。
第1次世界大戦の後オーストリア=ハンガリー帝国崩壊に大きな精神的ショックを受け、晩年は過去の文化や伝統に結びついた文化評論や書物の編集に励んだ。1929年、卒中により死去。息子フランツが拳銃自殺をしたわずか2日後のことであった。
主な作品
- 1891年 きのう Gestern (戯曲。17歳)
- 1892年 ティツィアーノの死 Der Tod des Tizian (戯曲)
- 1893年 痴人と死 Der Tor und der Tod (戯曲)
- 1898年 Der Frau im Fenster (韻文劇)
- 1900年 Der Kaiser und die Hexe (韻文劇)
- 1902年 チャンドス卿の手紙 Der Brief des Lord Chandos
- 1903年 エレクトラ Elektra (ギリシア古典劇に基づく)
- 1911年 ナクソス島のアリアドネ Ariadne Auf Naxos
- 1916年 Alkesis (ギリシア古典劇を基礎)
- 1907年 Gedichte (詩全集)
- 1907-17年 Prosaische Schriften (散文集)
- 1911年 薔薇の騎士(* *) Rosenkavalier (歌劇)
- 1911年 イェーダーマン Jedermann (戯曲)
- 1919年 影のない女 Die Frau ohne Schatten (歌劇)
- 1925年 塔 Der Turm (戯曲)
- 1932年 アンドレアス Andreas (小説、未完)
主な日本語訳
- 『ホーフマンスタール選集』(全4巻 河出書房新社、1972-74年、数度重刷)
1.詩・韻文劇、2.小説・散文、3.論文・エッセイ、4.戯曲。 - 川村二郎訳 『ホフマンスタール詩集』(小沢書店 1994年、岩波文庫 2009年)
- 檜山哲彦訳 『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫 1991年)
- 川村二郎訳 『チャンドス卿の手紙.アンドレアス』(講談社文芸文庫、1997年)
- 富士川英郎訳 『詩集・拾遺詩集』(平凡社ライブラリー、1994年)
- リルケとの書簡 『文芸書簡 1899~1925』(塚越敏訳・解説、文化書房博文社、2003年)
- 『リヒャルト・シュトラウス 往復書簡全集』(中島悠爾訳、音楽之友社 2000年)
- 『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密 R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』 (河出書房新社、1994年)
- 『筑摩世界文学大系63.ホーフマンスタール、ヨーゼフ・ロート』(大山定一ほか訳、筑摩書房、1974年)、代表作を所収、一括復刊(1998年)。