エチオピア戦争
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エチオピア戦争(エチオピアせんそう)とは、エチオピア帝国とイタリア王国が数度に渡り行った戦争。
概要
以下の二つがある。
- 第一次エチオピア戦争(1889年 - 1896年)
- 第二次エチオピア戦争(1935年 - 1941年)
第一次エチオピア戦争
もともとイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦した。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。
遠征軍の指揮官であるオレステ・バラティエーリはエチオピア軍がフランス式の大砲や機関銃で武装していることを知ると、本国に本格的な派兵を要請した。しかしアフリカ人相手の戦争と侮っていた(これは他の欧州諸国にも通ずる偏見である)フランチェスコ・クリスピ首相は増援を拒絶し、速やかな決戦を命じた。
アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。イタリア軍側は各所で包囲されながも抵抗しエチオピア軍に10000名の損害を与えたが、自らも8000名の兵士を失って敗北した。
第二次エチオピア戦争
領土拡大を図るイタリアはドゥーチェ・ムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した。
1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。