土屋昌恒

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テンプレート:基礎情報 武士 土屋 昌恒(つちや まさつね)は、戦国時代武将武田氏の家臣で譜代家老衆。金丸虎義の5男で、土屋貞綱の養子。

略歴

ファイル:Katategiri monument.JPG
天目山の崖道にある片手切りの史跡

信玄・勝頼期の家臣で、『甲陽軍鑑』に拠ると天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加して奮戦したが、このときに父と兄が戦死したため家督を継承したという。

勝頼に従い主に東海道方面・関東方面の戦いの多くに参加した。

天正10年(1582年)、織田信長甲州征伐で武田氏の一門や家臣団の多くが離反していく中で、昌恒は最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦したが、兵の多寡は知れており、最後は討ち死にした。この戦いの際、峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。

テンプレート:要出典範囲には「容姿端麗にして剛毅」と称されている。

遺児である土屋忠直徳川家康に召し出され、江戸時代に土屋氏は上総久留里藩の大名となった。