法治国家
テンプレート:混同 法治国家(ほうちこっか、独:Rechtsstaat、仏:État de droit)とは、その基本的性格が変更不可能である恒久的な法体系によって、その権力を拘束されている国家。近代ドイツ法学に由来する概念であり、国家におけるすべての決定や判断は、国家が定めた法律に基づいて行うとされる。この国家を理想とする思想を法治主義(ほうちしゅぎ)という。法治主義には形式的に法の形態を具えてさえいれば悪法もまた法となるという問題点があり法の支配と区別されることがある。
上記とは別の定義で、中国の戦国時代の法家が唱えた法治の思想により統治される国が法治国家であり、その思想を法治主義という。
歴史
法治国家の概念の起源については、英国で発展した法の支配と同様に古き良き法に求める者もいるが、一般にはカントを先駆者とし、カール・ヴエルガー、ローベルト・フォン・モールらによって19世紀のドイツで発展した概念とされる。
社会における階級が激しく対立していた当時のドイツにおいて、法律に従った、法律による、国家の統治を実現することによって、国家内部における客観的な法規の定律及び行政活動の非党派性を保障して階級対立を緩和し、臣民の権利ないし自由を保障する実質的な内容を有していたが、その後、フリードリヒ.・ユリウス・シュタール、ルドルフ・フォン・グナイストらによって形式的で法技術的な原理に転化し、オットー・マイヤーによって定着した概念とされる。
日本では、美濃部達吉及び佐々木惣一がほぼ同時期に日本にドイツの学説を輸入したのが、次世代の田中二郎によって通説として定着した。
解説
法の支配の述べる法とは、議会や法廷あるいは(哲)学者の理性により、現実の社会や慣習の中から「発見される」ものであり、高権力に位置すべき国王(ないし行政府)がその法(法理)を尊重し法の支配に服することをもって社会全体を法理により統治することをさすのに対して、法治国家とは法による支配の、より実定法的側面が強調される。
形式的法治主義
第二次大戦までの近代ドイツにおいて、法治国家の概念は、もっぱら国家が機能する形式または手続きを示すものであった。この意味での法治主義は、いかなる政治体制とも結合しうる形式的な概念である。
また、ここで言われている「法」も、近代大陸法学における実定法としての法であって、その内容とは関係のない「成文化され制定された法律」という形式を指している。
実質的法治主義
形式的な法によって形式的に国家活動を縛るというだけでなく、法の内容や適用においても正義や合理性を要求する場合、これを実質的法治主義と呼ぶことができる。この意味での法治主義は法の支配とほぼ同じ意味を持つ。
第二次大戦後のドイツでは、ナチズム時代の反省に基づいて、法の内容が正当であるか否かを憲法に照らして確かめていく違憲審査制が採用されるようになった。ゆえに、戦後ドイツは実質的法治主義をとる国家だと言える。
形式的法治主義の観点からすれば、現在の国家のほとんどは「法治国家」である。たとえ国王や君主や権力者(独裁者)が統治する国家であっても、その権力が法律によって制限されている場合は、法治国家に当てはまる。また、一部の権力者が自由に法律を制定したり改正できる国家も、形式的に政府や権力者が法律に拘束されているならば、法治国家の定義に当てはまる(極端な例として「全権委任法」によって独裁権力を合法的に得たアドルフ・ヒトラー)。ただし、国王や君主の権力が法律に一切制限されない近世の「絶対君主制」や、近現代においても権力者が自国の法律を無視して権力を行使している場合は、この定義には当てはまらない。
一方、実質的法治主義の観点においては、法の形式だけではなく内容上の正当性が追求されねばならず、法律体系が憲法や人権、慣習や社会道徳などに適っているかどうかが問題となる。実質的に法治国家であるかどうかは、制度の側面および現実の政治や法実践の側面において確かめうる。制度的には、前述の違憲審査制などが基準となる。現実において実質的な法治主義が守られているかどうかは、政治や法のさまざまな実践を丁寧に観察・分析することによってしか確かめられない。
人治国家
一部では、法治国家の対義語として人治国家(じんちこっか)という語を用いることがある。法治国家が憲法学や行政法学の講学上の用語であるのに対して、こちらは俗語。時の政権の恣意で法律解釈が変えられるような状態の国家を指して云われる。
一党独裁体制や軍政も広義で此に含まれ、1980年代中国の民主化運動においては、「人治ではなく法治を」のスローガンが用いられたこともあった。
黄文雄はその著書の中で中国に対し、中華思想と併せて「自ら奴隷たらん事を望む」とその本質を痛烈に批判しており、魯迅も嘗て著書の「阿Q正伝」を通じて、その批判と漢民族の啓蒙を行っていた。
その他
山本七平は「『派閥』の研究」(文藝春秋)において、「日本は法治国家ではなく納得治国家で、罰しなければ国民が納得しないほど目に余るものは罰する法律を探してでも(別件逮捕同然のことをしてでも)罰するが、罰しなくとも国民が納得するものは違法であっても大目に見て何もしない」と述べている。